物語を語り継ぐことージャンゴ繋がれざるもの

人はなぜ物語ることを続けるのだろうか?


千夜一夜物語の頃から、それ以前から、

人は物語ることを続けてきた。

現在ある書き言葉、それは数千年のつい最近生まれたもので、

人間は数万年前から言葉を持っていたから、

それまでは語られる言葉こそ、言葉であった。


ソクラテスが著書を残していないことは、

よく知られているが、

今、彼の語りが残るのはプラトンが書き残したからだ。


哲学の始まりからして、

言葉は語られるものだった。

しかし、次第に哲学の舞台は書き言葉へ移っていった。

前世紀にそれを痛烈に批判したのがジャック・デリダだ。

哲学で書き言葉が優位になっていたことを彼は批判した。


ジャンゴ、西部劇の感想になぜ人間の言葉の話や哲学の話が出てくるのか、

ここまで読んで、頭に?マークを浮かべている方が多かろう。


しかし、間違いなくこの映画で物語を語ることがテーマなのではないかと、

私には思えてならなかったから、

こんな書き出しになってしまった。


映画の話にしよう!!


私をそう思わせたシーンについて書く。

賞金稼ぎのDr.シュルツは賞金首の顔を知る、

黒人奴隷のジャンゴを奴隷商人から買う。

ジャンゴは英語は話せるが、

読むことはそれほど出来なかった。

シュルツとともに賞金稼ぎをすることになったジャンゴは、

賞金首の手配書で言葉の読み方を習う。

ジャンゴは映画を通して言葉を身に着けていく、

その成長が描かれる。

言葉を習うシーンで、

ジャンゴの生き別れの妻の名が、

ドイツ人誰もが知るジークフリードの英雄譚で、

ジークフリードが救い出す姫の名前と一致するというので、

ドイツ人のシュルツがジャンゴにこの英雄譚を聴かせるシーンこそが、

私が一番、心を持っていかれたシーンである。

シュルツの話を熱心に聞くジャンゴ役のジェイミー・フォックスの子供のような表情が素晴らしかったからだ。

みなさんも子供の頃、大人から色々な物語を聞いたことがあるだろう。

自分がどんな表情でそれを聞いていたかは分からないが、

おそらく、この時のジャンゴのようにワクワクとまなこをキラビかせて聞いていたんだと思う。

このシーンが実は重要な布石になっている。

ジャンゴが最後の戦いに行くために、

自分は奴隷でないと白人を説得するシーンに繋がるのだ。

読むことすら出来なかった言葉を完全に自分のものにして、

自らを捕えた人を説得する、

胸が熱くなるシーンだ。


タランティーノの描く西部劇とはこういうことだったのか。

ビデオ屋でバイトしながら、

こんなことを考えていたのか、

深く考えられさせるテーマを持った重厚な作品に敬意を表さずにはいられない。

「ヘルタースケルター」強くなるために美を求める怪物

このヘルタースケルターを観るに当たり、事前に少し情報収集をしたが、

沢尻エリカがLilicoの役が抜けきらずに、

精神的に辛い状態で、プロモーション活動に支障が出ているというものと、

劇中でヌードを披露しているという2つを取り上げるものが多かった。





しかし、この作品を最後まで観れば、より本質的に論じなければならいことは、

これ以上に幾つもある様に思った。





まず、この作品のつかみとも言える要素である、沢尻のヌードについて論じる。

完成披露試写会の取材をしたスポーツ新聞などの記者は、

沢尻のバストトップがあらわになっていることをことさらに取り上げていた。

だが、それが監督の本意とはかけ離れていることは、

演出を見れば明らかだ。



開始直後、Lilicoのイメージショットで包帯を全身に巻いた状態で沢尻が現れる。

頭部、両足と徐々にその包帯は取られていき、最後にバストがあらわになる。



観客が最も見たいバストを最後に見せるというのは、

演出上の何らかの意図があると見て間違いない。



この映画は15歳以上でなければ観れない。

その事実に対して、観客は自然と性的な表現が行われていると妄想する。

事実、最初のショットで沢尻のバストトップを見ることができる。



しかし、最後までこの作品を見れば、沢尻のヌードを見せることに、

主眼が置かれていないことは明らかであある。


冒頭のこのシーンと、続く窪塚洋介演じる、御曹司との、

写真撮影現場の控え室でのSEXシーンを除くと、

その後、沢尻のバストトップがあらわになるシーンはない。



この点に、監督の強い意志が感じられる。

確かに、沢尻のヌード目当てにやってくる観客いるだろう。

だったら、岡崎京子の傑作、「ヘルタースケルター」を原作とする必要はない。

あくまで製作者は作品の内容にそんな観客でも飲み込まれるようにLilicoの光と闇を描いている。




もう一つ、これは作品外のことかもしれないが重要なことなので補足しておく。

沢尻の実生活での事と、演じたLilicoの重なる部分についてだ。


沢尻自身がLilicoの様に全身整形手術を受けているかどうかは、そうではないと思うが、

彼女も芸能界で、かつて絶頂を迎えたことがある。

絶頂というのも、その後に谷底に引きずり降ろされたという意味も含んでいる。

記者会見での「別に!!」発言の後、全てのマスコミから非難される存在になった。

私生活でも、高城剛との結婚と離婚。



岡田斗司夫の表現を借りれば、

沢尻エリカは才能の枯れたクリエイターでさえ結婚してくれる「いい女」となるが、

私もこのようにblogを書くような、クリエイター志望のワナビーであったので、

俺も沢尻と結婚できると嬉しくなった思い出がある。



それはさておき、この結婚離婚騒動で、日本中のテレビを沢尻は席巻した。

騒動後の復帰第一作という見方もこの作品はされていた。


実際鑑賞中も、私は「いい女」である現実の沢尻と、劇中のLilicoとの区別がつかなくなるようなことが度々あった。


それでは、この作品のテーマについて論じよう。

LIlicoは芸能事務所の社長である、桃井かおりによって整形手術を受け、「美」を手に入れる。


Lilicoも強くなるためには、美しくならなければならないと自分に言い聞かせる。

「美しさ」と「強さ」との関係。


私は西尾維新の「偽物語」での、

「正義」と「強さ」との関係を想起した。


「正義」を行使するには、「強さ」を備えていなければならない。

また、「本物」「偽物」という対も重要な概念対立だった。




話を「ヘルタースケルター」に戻すと、

物語の最後、國府田マリ子主演映画「Looking for」で、國府田の弟役を演じた大森南朋が検事役で出演しており、

大森に対し補佐役の鈴木杏がこのように問う。



「神様は、若さと美を与えるが、なぜ最後にはそれらを奪い去ってしまうのか。」と



それに対する大森の答えが秀逸だった。

曰く「若さ」と「美しさ」は全く同じものではない。

確かに「若さ」は失われていくが、

果たして「美しさ」も失われるものなのか、

「美しさ」とはもっと複雑なものなのではないかと。



「美しさ」がなけれは、「強く」なれないのなら、

その「美しさ」を失った者は弱くなってこの世界を生き抜いていけなくなるのか。




この作品では、女子高生達がLilicoについてうわさ話をしている場面が何度か映される。

物語の始まりでは、女子高生たちは、「もし明日起きたら、Lilicoになってたら最高だよね!」などと、

彼女らにとってLilicoは憧れの存在だった。


しかし、物語後半、Lilicoがモデルになる前の、

風俗で働いていた頃の整形前の写真などがマスコミによって広められると、

彼女たちは、Lilicoへ評価を一変させる。

Lilicoみたいに自分も整形手術を受けて美人になりたいと、

実際に彼女たちは、目を大きくしたり、足を細く加工するプリクラを撮り、

ドラッグストアで化粧品を手に取るシーンが描かれる。


その姿を、大森は彼女たちも、またLilicoと同じように、

「美」を求め「強く」なろうとするリトルモンスターであると鈴木と話をする。



最後に、演出全般について、庵野秀明信者の私には語らなければいけないことがある。


蜷川実花庵野のフォローであることは間違いない。

実はこの関係はかなり複雑である。


元々庵野自体がそれまでの日本映画から多大な影響を受けているために、

蜷川も、庵野ではなく、日本映画からインスパイアを受けていると言い換えることも出来るからだ。



しかし、それでは面白く無いので、以下、庵野との関係について論じる。

実際、庵野は少女漫画の読者で、当然、岡崎京子も読んでいることだろう。

蜷川実花の前作「さくらん」の原作は庵野の妻、安野モヨコであった。


そうした関連もあるが、「ヘルタースケルター」の演出自体にも一致点があった。

エヴァ「最後のシ者」でカヲルがネルフ本部を攻撃する時に使われた、

ベートーヴェンの「第9」の第4楽章の合唱部分が、

ヘルタースケルター」でLilicoが幻覚と戦うシーンで使われる。


それ以外にも、庵野の影響はみられるのだが、

紙面が尽きたのでここまでとしよう。

「戦火の馬」ネタバレの存在しない、結末が約束された映画

どんなメディアであれ、物語コンテンツを作る場合、

その物語の結末をどうするかは、常に製作者を悩ます。

まどか☆マギカ」のあの奇跡の結末を描き出した虚淵玄も、

自らが物語を紡ぐときは最初からその結末を意識して、

筆を進めるという。


スティーブン・スピルバーグという偉大な映画監督がいる。

少年時代から、8ミリで戦争映画を撮って育ち、

今は比肩しうる者がいない程の高みにいる。


彼の戦争映画「プライベートライアン」はなんといっても、

ノルマンディー上陸作戦のハンディーカメラを使った、

まるで鑑賞者を戦場にいるのかと錯覚させるようなシーンで、

戦争映画の歴史に新たな1ページを刻んだ。


本作、「戦火の馬」の戦場シーンで特筆すべきものがある。

主人公であるサラブレッド「ジョーイ」にまたがっての騎兵隊の突撃シーン。

塹壕戦のシーンとその塹壕を駆け抜ける「ジョーイ」。



そもそも自分は第2次世界大戦で騎兵隊による奇襲作戦などが行われていたことを知らなかった。

また、それとは逆に塹壕戦はあまりにもよく知られている、大戦での悲劇の戦場である。


戦争映画としても確かに優れた作品だが、

主人公があくまで馬の「ジョーイ」であることが他の作品の中から際立った点だろう。


「ジョーイ」はイギリス軍の騎兵隊の軍馬として戦地へ赴くが、

すぐにドイツ軍に捕らえられてしまう。

そして、フランスの農家で少女に匿われる。

少女から再びドイツ軍に徴収され、

ナチスのトンデモ兵器である、これなん口径あるんだってほどの野戦砲を引く事になる。


ジョーイの所属がめまぐるしく変わっていく中でも、

変わらないものがあった、ジョーイの世話をする者が抱く命への愛だ。


気性が荒かったジョーイに鋤を引けるように育てた、人間側の主人公アンドリューの愛だけでなく。

アンドリューからジョーイを引き受けたイギリス人将校もジョーイのデッサンを描くほど愛していた。

また、ドイツ軍に徴収された時も、ドイツ人の世話係はジョーイを気遣った。


戦争ではえてして命の価値が低くなってしまうものだ。


人間にはそれぞれ守るべきものがあって戦うのだろうが、

無理やり連れてこられたそこで辛い労働させられ、

それどころか命を差し出さなくてはならなくなってしまう馬たちにとって戦争とは何なのか。


人間にしてもそうである。

命を投げ出す馬を見て、人は彼らに慈しみの心を抱く。

戦場で人は気付かされる、命の価値は決してどんな状況でも低くなるものではないと。


人と馬と種別が異なるからこそ、思考停止から抜け出すことができるのかもしれない。




それでは物語を結末へどう至らせるかという問題を論じていこう。


この物語は序盤に結末を鑑賞者に予感させる。

タイトルからジョーイが戦場へ駆り出されること予想されるが、

私たちは、必ず、ジョーイがアンドリューの元へ帰ってくるだろうと期待をもって物語を追う。


ジョーイが過酷な状況に置かれるたびに、それでもきっとジョーイは戻ってくるはずだ期待は高まっていく。

その結末だけは約束されている。



可能世界論ではないけれども、

ジョーイがアンドリューの事を思い出しながらも戦場で力尽きる結末だったらどうだったろうか。


確かにそういった物語だったら、戦争というものの悲惨さは更に伝えられていたかもしれない。


私たちの文明は戦争を繰り返してきたが、

それに対して戦争物語というものも数多く残されてきた。

平家物語」はないが争いとは諸行無常のものなのかもしれない。


現代に生きる私達が、戦争映画を観て抱くべきものとは何だろうか。


今、熊谷の実家に戻っているのだが、昨晩小学校の卒業アルバムに自分の夢についての作文を読み返した。

小学生の頃の自分はスクウェアの「フロントミッション」を念頭に置きながら、

戦争の悲惨さを伝えるようなゲームを作りたいという夢を抱いていた。


今の私は小学生の頃の思いの延長線上に思考を進めて↓のようなエントリも書いた。

http://d.hatena.ne.jp/xerxes1/20100920/1285010946


戦争を描いた物語を見て、悲惨だ悲惨だと嘆くことも必要だろう。

だが、「戦火の馬」はその先に人類の思考を進めるものであった。


戦争に巻き込まれた人々は、一頭の馬をどうにか育ての親の元へ戻してあげようと行動する。

物語が進むにつれ、一頭の馬の命の価値は高まり続ける。

悲惨な戦争の中で、ジョーイと触れ合う人々は、命というものがどれほど価値の高いものかということを、

ジョーイの懸命に走る姿から思い知らされる。




これまでの戦争映画は、人間同士が戦う中で、それぞれの命の価値を確かめ合うものだったが、

この映画では奇跡的に帰還するジョーイからそれを一方的に気付かされるという形をとっている。


この奇跡が、人間に「希望」というものを抱かせる。


悲惨な戦場から帰ってくることの希望。


それがスピルバーグがこの映画に込めたものではないのか。


希望を抱くということがどれほど素晴らしいか、

悲しい出来事が日本には去年は多かったが、

そんな過酷な現実の中でこそ、希望を抱かなければ、

そもそも人間は生きていけない。




もう一つこの映画を観て、私が体験したことを追記してこのエントリを締めくくろう。

よく涙を流すことを描写するときに、

「温かいものが自然と頬を流れた」

というような表現が使われることがある。


涙と流すという行為が、自発的なものかどうかという問題がここで生じている。
>
上記の表現の場合、非自発的に「自然と」涙を流し、

頬を触ることによって事後的にその事実を知るに至るというように解釈できる。


皆さんにも考えて欲しいのだが、

あなたが涙を流すのは「自然」な行為なのだろうか。


これとは異なったパターンを考えてみる。

自発的に流す涙はあるのか。


ここで私が涙を流すときのパターンを2つに分けてみる。

私は自発的に流していると思うのが、

主に自分の置かれている状況を考えた末に流すパターンと、

映画などの物語を観て感情が極まった時に流す非自発的な「自然」な涙のパターンだ。


この区別は、本質的ではないのかもしれないが、

人間の思考が強く絡む場合とそうでない場合を区別できるのではないかとふと思った。


思考の末に流す涙と自然と流す涙。


ここで優劣をつけようとは思わない。

どちらもとても人間的なものであり尊いなあと感じるのだ。


この「戦火の馬」はこの2つの両方のパターンの涙を私に流させた。

戦争というものはなんでこれほど悲惨なのかと考えた末の涙と、

ジョーイに乗ってアンドリューが帰還するシーンを観て自然と流した涙。


これからも、スピルバーグの映画が公開されるときは優先して観たいと思わせる程の作品だった。

中学生の頃に大好きだった作品に、今になって再び出会う―「ベルセルク」と「新日本プロレス」

今日は気分をかえて、いつもの川崎ではなく、センター北ノースポートモールで映画を2本観てきました。



まず、3Dの新日本プロレスの「1・4東京ドーム2012」を観ました。

以前、TOHOシネマズで買った自分のメガネにくっつける方式のや〜つがあったので2000円なり。



俺には計2回泣きどころがあったのですが、まずしょっぱなからの「天コジ」タッグがIWGPヘビー級タッグを獲ったシーンです。

「天コジ」はちょうど中学から高校にかけて新日本プロレス熱が一番高かった頃に活躍していて、

弟と一緒にテレビを見ながら応援してました。



そのタッグを束ねていたのがジーニアス武藤です。

俺が見始めた時には、NWOのトップの蝶野が怪我で戦線離脱していたので、武藤こそが俺にとってのNWOでした。

実際、地元に新日本プロレスが来た時にはNWOのTシャツを弟の分まで買いました。

当時は武藤選手の様なプロレスラーになりたい、とまで思いませんでしたが、武藤のような大人になりたかったです。




今回の東京ドームには、武藤が3年ぶりに参戦し、俺の一年年上の内藤哲也シングルマッチが組まれてました。

内藤も俺と同じ時期の武藤の活躍を見て、プロレスラーになることを決めたと試合前に言ってました。

試合開始前、武藤の入場シーンを見ながら、こんなに武藤を愛する俺でも、内藤に勝って欲しいと思ってしまいました。


最近観た複数の映画、

はやぶさ、遙かなる帰還」

「Always 3丁目の夕日64」

聯合艦隊司令長官 山本五十六

麒麟の翼」

どれも上の世代から次の世代へのバトンタッチをテーマに描いた映画でした。



それなので、今回も是非、内藤も子供の頃、憧れた武藤を越えて、新時代を切り開いていって欲しいと、心の中で思ったからです。

俺も、同じ問題で、今、悩んでいるからです。

俺にとって、父親が残した仕事が偉大すぎて、少なくとも今の自分には、越えられそうにありません。

だからこそ、同年代の内藤には、武藤を倒し、2代目のジーニアスを継承して欲しいと願ったのです。


しかし、リングの上で、武藤の得意とする、

膝を狙った低空ドロップキックとドラゴンスクリューからのFigure four leg lock の美しいシークエンスを見て、

心の底から武藤を応援してました。



もうだめなんです。武藤が好きすぎて、古傷の膝をかばいながら動く、その立ち姿だけで、熱いものがこみ上げてくるのです。



内藤は若さと頭のキレで非常にトリッキーな動きをする、今風のレスラーなのですが、俺が求めているのは90年代のプロレスでした。

最後は、武藤さんのドーム限定のムーンサルトプレスからのフォールで3カウント。

泣きました!!

俺が武藤と対戦して、あれをやられたら、いくら体力が残っていたとしても、3カウントを待ってしまうと思います。


試合後に武藤は内藤が自分を見てプロレスラーになったと決めたと聞き、

今度は、内藤を見てプロレスラーになりたいという若者がでてくるように、

頑張って欲しいとエールを送りました。



俺もいつか、俺の仕事を見て、俺のようになりたい、と思われる様な立派な大人になるんだ、と心に決めました。


ベルセルク」についてと、2つに共通する俺の思いについては数日中に更新します。


主語を「俺」にして、良かったです。

文フリとRise of Planet of the Apes

今日は活動的な一日でした。
9時に起きて、文フリ行こうとしましたが、
まさかの二度寝
12時に起きて、さあこれから、文フリ行くべきか、否かと考えましたが、
昨日、志津Aさんに行きます、と言ったし、
bullotusを誘ったが、断られてしまった手前もあり、
行くしかないだろうということで、行ってきました。



会場についたのは2時過ぎ、もう売れ切れてしまっている本もあるのではないかと、
少しの不安と共に足を踏み入れた流通センター。
いかにも、文化系の人達が集まり、安心のメガネ率と思いながら、
まずは、志津Aさんの「second after」のブースへ。
初対面の志津Aさんは、見るからに優しそうでありながら、
内に秘めたものがある感じの、tweetから伝わってきたとても誠実そうな人でした。
「志津さんですか、クセルクセスです。はじめまして!!
志津さんのヤマカン論をもっと聞きたいです。」
と簡単な挨拶と、
いつもの俺の強引なリプライに答えていただき
ありがとうございます、と伝えることができました。



次なる目的地、アニメルカブースへ、
先程購入した「second after」を見せながら、
志津さんの参加している号をくださいと告げると、
その3冊と、
「一番おすすめは、最新刊の4号です。」
という言葉につられそれも買いました。
アニメルカブースのそばで、石岡良治さんがちらちら視界に入っていたのですが、
言葉をかけることなく、次の目的地へ。



実は「second after」のブースへ行く途中で、ある人物が目に入っていました。
そうです。同い年で同じようなメディア体験を持つ。藤田直哉さんです。
ということで、限界研へ。
藤田さんは、ネット上で見たのと同じ風貌でそこにいました。
twitterでやり取りしたことはありましたが、
実際に話ができる日がこんなにすぐにやってくるとは思いませんでした。
藤田さんには、まず「同い年です。」
「同じようなメディア体験をしてきた者の代表として、
これからも活動していってください。」
「最近藤田さんにretweetしてもらったbullotusは大学からの友達です。」
そして、藤田さんから、FRONT MISSION ALTERNATIVE良かったよね、という話の流れで、90年代後半のスクウェアのゲームの流れについての論考があってしかるべきだ。

みたいな話も聞けて満足でした。



その後、BLACK PASTのブースへ行き、
「本はもう持っているので」
と言いながらフリーペーパーをもらいました。



あと界遊のブースでパラパラ見させてもらったら、
藤田さんとののUSTの記事が載っていて、
売り子の人と「これ面白かったですよね。」
と話し、会場をあとにしました。



文フリ全体の感想としては、もし午前中から行けていれば、
人も多かったろうし、活気も感じられたのかと思う反面、
本を渡してもらうだけで、
志津さんや藤田さんと直接話せたのだろうかと、
ゆっくりできて、目的の本もすべて買えたので、
文フリは午後からでも楽しめました。
でも、次回は二度寝の誘惑に打ち勝ち、
朝から参加するのもいいかもしれませんね。





ここで今回の更新の2つ目のテーマ、
文フリの帰りに見た
猿の惑星 創世記」
の感想です。



この作品は、様々な視点から捉えることのできる、
語りがいのある作品であると思いますが、
そのいくつかを語っていきたいと思います。



まず、目に入ってくる情報から、
Transformerの時も同じような感想を持ったのですが、
これはやはりアニメーション映画の文脈で捉えなければならないということです。
Transformerの場合はロボット、アバターの場合は異星人、
それぞれ、は人とは異なった存在ではありますが、
共に言葉をしゃべります。
Transformerのオプティマスプライムに関しては、
岡田斗司夫さんも指摘しているように演説までしやがります。
しかし、今回は、知能が高まった猿たちが、
コンピュータグラフィックスで描かれますが、
彼らは言葉を話すことはありません。
実際には、ここがこの映画の素晴らしいところで、
ぜひご覧になって私のこの発言にツッコミを入れて欲しいのですが、
続けます。
言葉を話さないチンパンジーの主人公シーザーに対して、
私の視聴態度としては、この場面でシーザーが人間だったら、
どう考え、なんと言葉にするのだろうかと、
ずっと考えながら、終演まで彼の表情を追い続けました。
ここがこの映画のCG技術で成功していると言えるところです。
私だけではないと思います。
多くの観客がシーザーが何を考え、
私たち人間達をどのように思っているのかを想像したことでしょう。
それが可能な仕組みがうまく技術面で達成されていたからです。
それは、シーザーのCGで作られた表情が変化に富み、
いきいきとその感情を観客に訴えかけてきていたからです。



深夜アニメを愛する私としては、
やはり日本の手描きアニメーションと比較してしまいます。
日本にもリアルな人間の表情を描こうとする、
素晴らしいアニメーターたちがいる一方。
特に深夜アニメでは、日本のアニメーションの長い歴史によって醸成された、
記号的な表現で、主人公たちの心情を表現する方法を使う作品が多いです。



また、アメリカへ視点を戻せば、ピクサーも日本とは少し異なった技法ですが、
同じ方法論を使っているように思えます。


私ははじめにこの「猿の惑星創世記」をアニメーション映画だと言いましたが、
正確なジャンルとしては「実写映画」と一般には捉えられています。


このあたりが論を進めるのが難しい点なんですが、
作品世界では、実際に知能が高まった猿が反乱を起こしているわけです。
こういってもうまく伝わらないでしょう。
もっと、わかりやすく言うと、
その猿は実際の猿として、作品内の人間が捉えているということです。
ここがアニメーション映画ではない点です。
アニメーションの登場人物は、その世界の住人です。
実写映画に出てくる猿は本当の猿です。
しかし、ここが二重の詐術になっているのですが、
実写映画の猿はCGで描かれているということです。
映画のVFXの歴史はだいぶ長いものになっていますが、
最初の「猿の惑星」の映画を思い出していただければ、
よくわかるものだと思います。
主人公が墜落した惑星は猿が支配していたわけですが、
彼らは人間とよく似た背格好をしています。
これは技術の問題です。
当時はもちろんCGはなかったわけですから、
特殊メイクをした人間の役者が演じています。
作中では彼らは確かに猿であるとして主人公は接します。
そうすると彼らがそれなりの文明を持っているどころか、
宗教めいたものまで持っています。
これは、画面情報からの要請に感じられます。
確かに彼らは、顔こそ猿ですが、
演じているのが人間なので、骨格は人間です。
となると、人間にとって彼らは、
話すこともできるし、心理学的な要請も働いて、
主人公はあたかも人間と接するようにするのです。



時間を進めましょう。
今回の映画では、
アルツハイマーの特効薬を投与されたチンパンジーの知性が高まるという話です。
やがて彼らは人間に反乱を起こし、
その後の世界が実は、最初に作られた映画の世界です。
ここに矛盾を私は感じる訳です。
確かに知性を高めたれた猿が地球を統治するところまでは飲めます。
しかし、その後彼らの背格好が人間と同じになるのは、
どのような進化が働いたと言うのでしょうか。
ちょっとここまで書いていて、事の本質を見損なっている感じがしてきたので、
もう少し書いて閉めようと思います。
それと、今作の一個前のティムバートン版を観てないので
変なことは言っているだけかもしれません。
私がただ言いたいのは、
今の技術で、最初の映画のストーリーのものを再構成したいと言うことです。
もしかしたら、ティムバートンがすでに成し遂げているかもしれませんが、



とにかくこんな長文になってしまうほど、
私が今回の映画が好きだと言うことです。



私の話に惹きつけると、
シーザーがおじいさんと助けるために、暴力をふるってしまい、
強制的に施設に入れられてしまうところは、
私が無理やり精神病院に入院させられた時のつらい記憶が蘇ってきて、
シーザーの気持ちへのシンクロが限りなく高まりました。



この映画がアカデミー賞のアニメーション部門にノミネートされることはないので、
ぜひシーザーに主演男優賞をあげて欲しいと言っといて、
この更新を閉じようと思います。
長々とした文章を読んでいただきありがとうございました。




最後に文フリで多くの人に出会えた経験はかけがいのないものでした。

夢と「文学」の可能性

人は何によって生きるのか、「情報」なのか、いや広義の「文学」、さらに言えば「想像力」からもたらされるのではないかという。 
@ssakagami さんの昨日の答えには、いくつも考えるべき点があった。


@wakusei2nd さんの「リトル・ピープルの時代」を読み終えて、考えていたことが、
昨日の @ssakagami さんの「文学」の役目のtweetを読んで、私の中でさらにまとまった。
それはなぜか。先程ある夢を見たからだ。 


@wakusei2nd さんの主張したかったこと、それは、昨日のシノドスのインタビューでも確認できた。
宇野さんに読了直後のリプライでも伝えたが、私はよく父親から、暴力的に私の言動を封鎖される夢を見る。
そして、今日は母の夢を見た。母が車を運転し、私は助手席で、警察の検問に捕まるというものだ。


いきなり夢の話なのだが、私は父に対しては母親の夢はそれほど見ない。
しかし、今日は見た。そして、私の気分障害の症状でもある早朝覚醒で、その内容をありありと体験し目をさました。
私は夢も広義の「文学」いや、「物語」と捉えている。


夢というと @tsuda さんが #life954 の「情報化社会の限界ライン」で話された、
体内にSDカードを埋めこんで、夢の内容を記録して、あとから見れたら最高という話を思い出した。
チャーリーからのそれは精神分析的にヤバいというツッコミと共によく覚えている。


夢は前日の記憶を脳に定着させる際に見るとも言われている。
私も夢日記を書くほどの夢マニアである。明晰夢も見る。
精神病を発症した当時、早朝覚醒躁状態のときは、夢で与えられた「啓示」を実行しようと、
その日をかけて行動し、疲れて帰って来て、うつ状態になって色々と後悔することもあった。


私は夢から「啓示」を受けることが多々ある。そ
れは、前日、得た知識を脳がまとめる作業を行っている最中に起こるから、
夢の内容はその知識に影響される。
今日の場合、 @wakusei2nd さんのインタビューと @ssakagami さんのtweetが元になったのかもしれない。


具体的な夢の内容に移ろう。
前半は、母親とドライブをする夢だ。まず、母親がうっかりと注意を怠った運転をし、私はひやひやする。
その後、正面に段階的に低くなっていく、トンネルの天井のようなところを進もうとする。
案の定、最終的には、それに車の屋根をこする。そこに警察の検問があり、捕まる。


父の夢は、私を抑えつけようとする、権力の象徴のようなものだ。
これに対し、今日見た母の夢は、年をとり、運転に必用な注意力が落ちてきていることを示す。
そんな母を手助けする立場に自分がならなければならないという「啓示」なのだろう。


私にとって父という存在が、今まで大きすぎた。
しかし、今回の夢を見て、母という存在についても考えなければいけないと思い知らされた。
その点は、 @wakusei2nd さんの次の著者「母性のディストピア」とも、関係してくると思う。


私をさらに驚かせたのは、今回の夢の後半だ。
私は大学生で、進路を考えあぐねている。
その時一冊の雑誌との出会いが訪れる。正確には紙の雑誌ではない。
夢なので細かくは描写されてはいなかったが、電子書籍を、汎用的なタブレットで見た。


その電子書籍は、様々な驚きを私に与える。夢の最後で、謎の毒ガスを使うテロリストとの戦闘を経て私は啓示を受ける。
電子書籍が語る物語で、SF的な想像力、確か宇宙船のコアのサーバを船長が見せるというところで夢は終わった。
ここに至るのはひとつのループを挟む。


今回の夢はループを含む。一度目に船長が見せたのは、サーバではなく謎の生物がうごめくコアだ。
しかし、次のループではそれは紛れもなくサーバであり、私が日々の業務で扱う、ラックマウント式のサーバ群だった。


サーバの夢を見たのは、寝る前にNHKのホワイトボックスで、サーバを見たのが影響していると思う。
そして、この夢から得た啓示は、なにか今の仕事、サーバの運用が今回の夢では、
それが宇宙船のコアとして使われているというもで、かなりの飛躍があると思う。


しかし、情報化社会と言われる現在、サーバはデータセンターに収められ、
クラウドで使用されるものかもしれないが、その発展的な使われ方は果てしないものがあるのではないかと、この夢で思い知らされた。


この夢で、今自分がしている仕事は、今後様々な方向性へ向かって行くのではないか、ということを考えさせられた。
最近は将来について漠然とした不安があった。
この仕事を続けて、5年後、10年後の私はそんな自分を認められるか。
しかし、社会の根幹に情報を集約するサーバがなければならない今後。


私の仕事の向かう先は、多くの選択肢をもたらすのではないかと思い。
今の自分を少しだけ認められる気分になれた。
自分の見た夢を「文学」に昇華する人もいるという。
そうなると私は「文学」の可能性に大いにかけたくなる。

あの花最終回見て、俺って・・・

あの花最終回見た。作品を見て自分の昔と今を考えさせられた。


私は三人男兄弟の長男なので3人で遊ぶときは、ゲームのルールを決めたりしていた。
近所の同い年は二人とも女の子で彼女たちと遊ぶときも自分がリーダーだった。
更に言えば、初孫だったので、従兄弟で遊ぶときも自分が先頭に立って遊んだ。


そんな俺はじんたんが他人の様に思えない。
小学校では、他の生徒の気を引くことをしたりして、リーダーではなかったものの立候補で学級委員などもしていた。
勉強はそこそこできたし、何より「天才」を自称するような事もしていた。
体の成長が早かったが、運動はダメで、高学年になると体重も増えてきた。
少年団でサッカーをしていたときのあだ名は「ペレ」だった。
もちろんうまいわけではなく補欠の神だった。
これは振り返るとイジメの一種だったのかもしれない。
ひどい扱いはされなかったが、孤立感はあった。




中学でも勉強はそこそこできた。立候補での学級委員も続けていた。
生徒会の選挙では、思い返すと恥ずかしいパフォーマンスの効いた演説で次点。
でも明らかにリーダーではなかった。
じんたんも小さい集団の中ではリーダーだったかもしれないけど所属する集団が大きくなると、天才も凡才になる。




そのことを思い知らされることになったのが、高校に入ってからだ。
まだ、埼玉にも学区制があって、学区では一番の進学校だった熊谷高校に入った。
まあ、中学でさらにできた人は、近くの某有名大の附属校に行き、生徒会長もそこへ行った。


熊谷高校は数人は東大にも行く様な伝統のある高校だった。
勉強だけでなく、他の才能のある奴もゴロゴロいた。
俺は勉強をやめた。
中学後半から庵野秀明になりたいと思うようになり、彼も中学までしか勉強していないと言うのを真に受けたのもある。
でも、世界史や生物など興味のある科目のみ勉強した。


でも半分、じんたん程ではないが、引きこもりの様になっていたのかもしれない。
学校には近いので行っていたが、3年になってからは屋上で本を読んで過ごすこともあった。
宮台真司と彼を通して東浩紀に出会えたのも大きかった。
このことを自分の思いに言葉を与えられた感じがしたとよく表現している。




その後の俺はこのようになっているとしか表現できないのだが、現実世界ではパッとしない生活をしている。
ショックだったのが、中学の時の同じ部活だった友人が同じ会社で先輩になってたことだ。
こうして書くと恥ずかしいとも感じる。
それが俺が失った3年間の結果なのだろう。


じんたんは突然めんまと再会したことで、かつての超平和バスターズの仲間と再び時を過ごすことができた。
最後には当時のあだ名で自然と呼び合えていた。
このことを自分に引きあわせてみるのはなんと辛いことか。
自分はめんまのような大きな喪失はなかったが、少しずつ失っていったものが堆積していき、その大きさに今、戸惑いを隠せない。


俺の明日はどっちだ!!