「戦火の馬」ネタバレの存在しない、結末が約束された映画
どんなメディアであれ、物語コンテンツを作る場合、
その物語の結末をどうするかは、常に製作者を悩ます。
自らが物語を紡ぐときは最初からその結末を意識して、
筆を進めるという。
スティーブン・スピルバーグという偉大な映画監督がいる。
少年時代から、8ミリで戦争映画を撮って育ち、
今は比肩しうる者がいない程の高みにいる。
彼の戦争映画「プライベートライアン」はなんといっても、
ノルマンディー上陸作戦のハンディーカメラを使った、
まるで鑑賞者を戦場にいるのかと錯覚させるようなシーンで、
戦争映画の歴史に新たな1ページを刻んだ。
本作、「戦火の馬」の戦場シーンで特筆すべきものがある。
主人公であるサラブレッド「ジョーイ」にまたがっての騎兵隊の突撃シーン。
そもそも自分は第2次世界大戦で騎兵隊による奇襲作戦などが行われていたことを知らなかった。
また、それとは逆に塹壕戦はあまりにもよく知られている、大戦での悲劇の戦場である。
戦争映画としても確かに優れた作品だが、
主人公があくまで馬の「ジョーイ」であることが他の作品の中から際立った点だろう。
「ジョーイ」はイギリス軍の騎兵隊の軍馬として戦地へ赴くが、
すぐにドイツ軍に捕らえられてしまう。
そして、フランスの農家で少女に匿われる。
少女から再びドイツ軍に徴収され、
ナチスのトンデモ兵器である、これなん口径あるんだってほどの野戦砲を引く事になる。
ジョーイの所属がめまぐるしく変わっていく中でも、
変わらないものがあった、ジョーイの世話をする者が抱く命への愛だ。
気性が荒かったジョーイに鋤を引けるように育てた、人間側の主人公アンドリューの愛だけでなく。
アンドリューからジョーイを引き受けたイギリス人将校もジョーイのデッサンを描くほど愛していた。
また、ドイツ軍に徴収された時も、ドイツ人の世話係はジョーイを気遣った。
戦争ではえてして命の価値が低くなってしまうものだ。
人間にはそれぞれ守るべきものがあって戦うのだろうが、
無理やり連れてこられたそこで辛い労働させられ、
それどころか命を差し出さなくてはならなくなってしまう馬たちにとって戦争とは何なのか。
人間にしてもそうである。
命を投げ出す馬を見て、人は彼らに慈しみの心を抱く。
戦場で人は気付かされる、命の価値は決してどんな状況でも低くなるものではないと。
人と馬と種別が異なるからこそ、思考停止から抜け出すことができるのかもしれない。
それでは物語を結末へどう至らせるかという問題を論じていこう。
この物語は序盤に結末を鑑賞者に予感させる。
タイトルからジョーイが戦場へ駆り出されること予想されるが、
私たちは、必ず、ジョーイがアンドリューの元へ帰ってくるだろうと期待をもって物語を追う。
ジョーイが過酷な状況に置かれるたびに、それでもきっとジョーイは戻ってくるはずだ期待は高まっていく。
その結末だけは約束されている。
可能世界論ではないけれども、
ジョーイがアンドリューの事を思い出しながらも戦場で力尽きる結末だったらどうだったろうか。
確かにそういった物語だったら、戦争というものの悲惨さは更に伝えられていたかもしれない。
私たちの文明は戦争を繰り返してきたが、
それに対して戦争物語というものも数多く残されてきた。
「平家物語」はないが争いとは諸行無常のものなのかもしれない。
現代に生きる私達が、戦争映画を観て抱くべきものとは何だろうか。
今、熊谷の実家に戻っているのだが、昨晩小学校の卒業アルバムに自分の夢についての作文を読み返した。
小学生の頃の自分はスクウェアの「フロントミッション」を念頭に置きながら、
戦争の悲惨さを伝えるようなゲームを作りたいという夢を抱いていた。
今の私は小学生の頃の思いの延長線上に思考を進めて↓のようなエントリも書いた。
http://d.hatena.ne.jp/xerxes1/20100920/1285010946
戦争を描いた物語を見て、悲惨だ悲惨だと嘆くことも必要だろう。
だが、「戦火の馬」はその先に人類の思考を進めるものであった。
戦争に巻き込まれた人々は、一頭の馬をどうにか育ての親の元へ戻してあげようと行動する。
物語が進むにつれ、一頭の馬の命の価値は高まり続ける。
悲惨な戦争の中で、ジョーイと触れ合う人々は、命というものがどれほど価値の高いものかということを、
ジョーイの懸命に走る姿から思い知らされる。
これまでの戦争映画は、人間同士が戦う中で、それぞれの命の価値を確かめ合うものだったが、
この映画では奇跡的に帰還するジョーイからそれを一方的に気付かされるという形をとっている。
この奇跡が、人間に「希望」というものを抱かせる。
悲惨な戦場から帰ってくることの希望。
それがスピルバーグがこの映画に込めたものではないのか。
希望を抱くということがどれほど素晴らしいか、
悲しい出来事が日本には去年は多かったが、
そんな過酷な現実の中でこそ、希望を抱かなければ、
そもそも人間は生きていけない。
もう一つこの映画を観て、私が体験したことを追記してこのエントリを締めくくろう。
よく涙を流すことを描写するときに、
「温かいものが自然と頬を流れた」
というような表現が使われることがある。
涙と流すという行為が、自発的なものかどうかという問題がここで生じている。
>
上記の表現の場合、非自発的に「自然と」涙を流し、
頬を触ることによって事後的にその事実を知るに至るというように解釈できる。
皆さんにも考えて欲しいのだが、
あなたが涙を流すのは「自然」な行為なのだろうか。
これとは異なったパターンを考えてみる。
自発的に流す涙はあるのか。
ここで私が涙を流すときのパターンを2つに分けてみる。
私は自発的に流していると思うのが、
主に自分の置かれている状況を考えた末に流すパターンと、
映画などの物語を観て感情が極まった時に流す非自発的な「自然」な涙のパターンだ。
この区別は、本質的ではないのかもしれないが、
人間の思考が強く絡む場合とそうでない場合を区別できるのではないかとふと思った。
思考の末に流す涙と自然と流す涙。
ここで優劣をつけようとは思わない。
どちらもとても人間的なものであり尊いなあと感じるのだ。
この「戦火の馬」はこの2つの両方のパターンの涙を私に流させた。
戦争というものはなんでこれほど悲惨なのかと考えた末の涙と、
ジョーイに乗ってアンドリューが帰還するシーンを観て自然と流した涙。
これからも、スピルバーグの映画が公開されるときは優先して観たいと思わせる程の作品だった。