「ヘルタースケルター」強くなるために美を求める怪物

このヘルタースケルターを観るに当たり、事前に少し情報収集をしたが、

沢尻エリカがLilicoの役が抜けきらずに、

精神的に辛い状態で、プロモーション活動に支障が出ているというものと、

劇中でヌードを披露しているという2つを取り上げるものが多かった。





しかし、この作品を最後まで観れば、より本質的に論じなければならいことは、

これ以上に幾つもある様に思った。





まず、この作品のつかみとも言える要素である、沢尻のヌードについて論じる。

完成披露試写会の取材をしたスポーツ新聞などの記者は、

沢尻のバストトップがあらわになっていることをことさらに取り上げていた。

だが、それが監督の本意とはかけ離れていることは、

演出を見れば明らかだ。



開始直後、Lilicoのイメージショットで包帯を全身に巻いた状態で沢尻が現れる。

頭部、両足と徐々にその包帯は取られていき、最後にバストがあらわになる。



観客が最も見たいバストを最後に見せるというのは、

演出上の何らかの意図があると見て間違いない。



この映画は15歳以上でなければ観れない。

その事実に対して、観客は自然と性的な表現が行われていると妄想する。

事実、最初のショットで沢尻のバストトップを見ることができる。



しかし、最後までこの作品を見れば、沢尻のヌードを見せることに、

主眼が置かれていないことは明らかであある。


冒頭のこのシーンと、続く窪塚洋介演じる、御曹司との、

写真撮影現場の控え室でのSEXシーンを除くと、

その後、沢尻のバストトップがあらわになるシーンはない。



この点に、監督の強い意志が感じられる。

確かに、沢尻のヌード目当てにやってくる観客いるだろう。

だったら、岡崎京子の傑作、「ヘルタースケルター」を原作とする必要はない。

あくまで製作者は作品の内容にそんな観客でも飲み込まれるようにLilicoの光と闇を描いている。




もう一つ、これは作品外のことかもしれないが重要なことなので補足しておく。

沢尻の実生活での事と、演じたLilicoの重なる部分についてだ。


沢尻自身がLilicoの様に全身整形手術を受けているかどうかは、そうではないと思うが、

彼女も芸能界で、かつて絶頂を迎えたことがある。

絶頂というのも、その後に谷底に引きずり降ろされたという意味も含んでいる。

記者会見での「別に!!」発言の後、全てのマスコミから非難される存在になった。

私生活でも、高城剛との結婚と離婚。



岡田斗司夫の表現を借りれば、

沢尻エリカは才能の枯れたクリエイターでさえ結婚してくれる「いい女」となるが、

私もこのようにblogを書くような、クリエイター志望のワナビーであったので、

俺も沢尻と結婚できると嬉しくなった思い出がある。



それはさておき、この結婚離婚騒動で、日本中のテレビを沢尻は席巻した。

騒動後の復帰第一作という見方もこの作品はされていた。


実際鑑賞中も、私は「いい女」である現実の沢尻と、劇中のLilicoとの区別がつかなくなるようなことが度々あった。


それでは、この作品のテーマについて論じよう。

LIlicoは芸能事務所の社長である、桃井かおりによって整形手術を受け、「美」を手に入れる。


Lilicoも強くなるためには、美しくならなければならないと自分に言い聞かせる。

「美しさ」と「強さ」との関係。


私は西尾維新の「偽物語」での、

「正義」と「強さ」との関係を想起した。


「正義」を行使するには、「強さ」を備えていなければならない。

また、「本物」「偽物」という対も重要な概念対立だった。




話を「ヘルタースケルター」に戻すと、

物語の最後、國府田マリ子主演映画「Looking for」で、國府田の弟役を演じた大森南朋が検事役で出演しており、

大森に対し補佐役の鈴木杏がこのように問う。



「神様は、若さと美を与えるが、なぜ最後にはそれらを奪い去ってしまうのか。」と



それに対する大森の答えが秀逸だった。

曰く「若さ」と「美しさ」は全く同じものではない。

確かに「若さ」は失われていくが、

果たして「美しさ」も失われるものなのか、

「美しさ」とはもっと複雑なものなのではないかと。



「美しさ」がなけれは、「強く」なれないのなら、

その「美しさ」を失った者は弱くなってこの世界を生き抜いていけなくなるのか。




この作品では、女子高生達がLilicoについてうわさ話をしている場面が何度か映される。

物語の始まりでは、女子高生たちは、「もし明日起きたら、Lilicoになってたら最高だよね!」などと、

彼女らにとってLilicoは憧れの存在だった。


しかし、物語後半、Lilicoがモデルになる前の、

風俗で働いていた頃の整形前の写真などがマスコミによって広められると、

彼女たちは、Lilicoへ評価を一変させる。

Lilicoみたいに自分も整形手術を受けて美人になりたいと、

実際に彼女たちは、目を大きくしたり、足を細く加工するプリクラを撮り、

ドラッグストアで化粧品を手に取るシーンが描かれる。


その姿を、大森は彼女たちも、またLilicoと同じように、

「美」を求め「強く」なろうとするリトルモンスターであると鈴木と話をする。



最後に、演出全般について、庵野秀明信者の私には語らなければいけないことがある。


蜷川実花庵野のフォローであることは間違いない。

実はこの関係はかなり複雑である。


元々庵野自体がそれまでの日本映画から多大な影響を受けているために、

蜷川も、庵野ではなく、日本映画からインスパイアを受けていると言い換えることも出来るからだ。



しかし、それでは面白く無いので、以下、庵野との関係について論じる。

実際、庵野は少女漫画の読者で、当然、岡崎京子も読んでいることだろう。

蜷川実花の前作「さくらん」の原作は庵野の妻、安野モヨコであった。


そうした関連もあるが、「ヘルタースケルター」の演出自体にも一致点があった。

エヴァ「最後のシ者」でカヲルがネルフ本部を攻撃する時に使われた、

ベートーヴェンの「第9」の第4楽章の合唱部分が、

ヘルタースケルター」でLilicoが幻覚と戦うシーンで使われる。


それ以外にも、庵野の影響はみられるのだが、

紙面が尽きたのでここまでとしよう。