twitter ID はxerxes_132です。

ということで最近のつぶやきから幾つか転載します。

アニメだけでなく、哲学の本も読んでるw事を。



ジンのLIVE映像漁ってたら、コードギアスのMADを見始め、川田まみの「JOINT」使った奴があったから、ヤマカンのシャナのOPが見たくなって、最後のシャナの表情がハルヒっぽいと思ったら、どちらものいぢ先生の作品でしたというオチ。

コードギアスを見返すと当時の文脈というか、デスノートの切り開いた地平にあって、宇野さんが評価していたのと、俺の5つ下の弟からするとエヴァよりもリアリティを感じるらしくって、更に下の世代だとそれをまどかマギカに感じるのかと思い、庵野監督の嘆きの間もアニメは更新されてるなと思い至る。



河本英夫『臨床するオートポイエーシス』序章及び1章意識読了。河本先生は90年代は精神医学、ゼロ年代に入ってからはリハビリテーションの現場からオートポイエーシスの理論を更新してきた。

先生は本書で意識という問題に面して、最新の認知科学や脳神経科学と、哲学の認識論及び現象学の双方の知見を導き糸にして、自己組織化する意識というシステムの記述を目指している。

ここで先生が使う、科学と哲学の関係が気になった。意識は近年、脳神経系科学の大きな主題として扱われたが、完全な解明には至らなかった。この失敗にこそ哲学が学ぶべき点が大いにあるという。

経験科学は機能を明らかにすることができる。しかし、機能そのものが生じる組織化の仕組みは得られない。哲学はこの場面で、働きとしての意識を論じることができる。フッサールは意識の機能を内観的に調べた。しかし、彼にとって意識は探求の道具であり、問題の対象ではなかった。

先生は、その哲学に特徴的な論理構成が発想に制限をかけているという。カントなどは意識を配置するさいに、その必要条件から論じようとしてしまう。必要条件からは意識などのシステムを作動させることは出来ない。これが哲学の思考停止である。






永井均ウィトゲンシュタイン入門」読んでる。ニーチェの哲学もウィトゲンシュタインの哲学も互いの哲学を内包しうるという話がズゴック面白かった。哲学ならではの難しさを感じた。どちらを形而上学として退けるかは、その人の住む「世界」による。






今日は夜勤三日目明けで折り返し、最近の文化活動としては新海誠の新作を観て改めて小説版の秒速を読む、その前まで元長柾木先生の星海大戦読んでて、かつてあったSFというジャンルに対する想いに共感する。今はポアンカレ予想の本、実はこの3冊繋がりがある 

そういう文学的な繋がりではなく、単純に数学のポアンカレが解いた制限三体問題のラグランジュポイントが星海大戦の太陽系内戦争の係争地点で、尚且つポアンカレが扱ったトポロジー等の純粋数学に秒速の貴樹が惹かれているという繋がりです。

いいとこに気づきましたねw秒速の小説版は、大学行った後の事まで書いてあって、大学時代の彼女との話まで新海誠自身の手で書かれているんだわさ。理学部時代に塾の手伝いをしててそこの数学の講師の講義が受験の為だけでなく純粋数学にも繋がっててって話 

2話のコスモナウトはサーファーの花苗の一人称で話が進むから、新海さんが女子高生になりきってて、ひたすら貴樹くんが好きかを語る。でもって、一緒にロケットが飛び立つのを見て、自分と見ているものが異なり、埋められない距離感を感じて終わる。故に花苗とは別れる。 

大学での彼女は2人いて、共に数カ月で別れている。仕事をはじめたとこまで読んで栞を挟んだので、でも、映画の描写だとプログラマーっぽかったよね。そのへんで、私と引きつけて見ちゃうんだけど。新海氏にとってどの映画も社会学的なロマンチックララヴの否定がテーマらしい。

そこが、ロマンチックラヴの否定というか、初恋の人と結婚しちゃあだめっていうか、逆にジブリは肯定的、今回の新作は画面はジブリ的かもしれないけど、テーマは正反対。  RT @bullotus:一番最初の彼女わすれられなかったってのはどうなのwいや小説版と映画はちがうんでしょうけど。

それまで、新海監督が得意としていたものを封印して、多くの人に届くように作った作品だから、本人も秒速の原理主義者から酷いこと言われたって。自分としては、監督が新しいことに挑戦しようとしているのを応援したい気持ち。 RT @bullotus:で、『星を追う子ども』は面白いのですか?





@ashizu ヘンリーダーガー展。今見てきました。言葉を失います。現在のインターネット社会に誰の目にも触れずに創作を続けるのは難しい。私ですら、このようにネットで妄想を垂れ流してます。





木田元ハイデガーの思想』読了。ハイデガーが問うたのは哲学、形而上学の根本に関わる問題だった。存在、この大いなる問題に真っ正面から取り組んだ。ニーチェから哲学に入った私には避けられない思索家であるという思いを強くした。

形而上学において本質存在と事実存在の区別がなされた、伝統的には本質存在の方が先立つものとされたが、これを転換しようとしたのがシェリングニーチェで、事(実存)在が先立つとしたのが、この実存主義だ。ハイデガーはこの区別自体を葬り去ろうとした。




@bullotus 石原に関しては高橋昌一郎氏の『理性の限界』に出てくるアロウの不可能性定理ってのがあってだな、とにかく選挙なんて投票法でいくらでも結果が変わる訳ですよ。一人一票でもマイナスに入れられたり、複数人に入れられたりすればね。

@bullotus 石原の意志が変わればと淡い期待は俺も持ってるよ。何せ、村上先生もTLに居るしね。君も今見たとおもうけど、あずまんが合理性を語る奴らの前にカントを召喚したいっていってるけど、デカルトから理性の本質について考え直すべきなんだとおもう。

@bullotus あずまんが言ってるのは、合理性というけど、その限界を合理的に決めようとするとシステムエラーを起こすって話。原発の合理性はその程度のものだって事かな。

あずまんの話を受けて、手元にあるフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のカントの節を読むん。フッサールとしてはカントより、デカルトもしくはヒュームが推し進めた道を行こうとしているのかな、教えて山口一郎先生!!




『エンジェルウォーズ』見た。日本のオタクは死んだかもしれないが、オタクという文化は本当に世界に広がったのだと、マトリックスキルビルなどもあったが、ここまで実写で表現できるのだとすると、アニメはどのような表現に進化していくべきなのか考えさせられる。

美少女ゲームが切り開いた地平

前回のpostで予定した通り、まどかマギカについて最終回まで見ての論考を書くつもりでしたが、

最近、新海誠の「星を追う子供」元長柾木「星海大戦」を続けて観賞したので、

視野を広げてゼロ年代東浩紀が称賛した美少女ゲームの系譜に繋がる作品についてまとめて論考したいです。

更に去年は麻枝准のAB!もあり、高校時代に「To Heart」をプレイして以来、

遠ざかっていた美少女ゲームをしようと言う事でリトバスを進めたので、

そのへんも含めて語りたいです。



東浩紀は、ゼロ年代に注目すべきジャンルとして美少女ゲームを取り上げ、

「動ポモ」「ゲーリア」でその時代の先端性に評価しました。



それに対して、宇野常寛美少女ゲームの構造に対して、

レイプファンタジーという言葉で批判しました。


そんなゼロ年代を終わらせたのが「まどかマギカ」であり

その一翼を、「Angel Beat!」や「星を追う子供」「星海大戦」を担っていると思うからです。


今日は夜勤明けでもう寝ないとなので次のPostで詳細に論じたいと思います。

まどかマギカは果たして庵野秀明が使う意味で「新しいアニメ」足り得たのか

エヴァを見た私は、それを語りうる言葉を求めた。


すぐに宮台真司に出会い、また彼を通して東浩紀を知り、
東を批判する、宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」に至った。


彼らはそれぞれの言葉でエヴァを語り、エヴァが切り開いた『地平』が、
その後のサブカルチャーに与えた影響の大きさに注目していた。


中でも、宇野常寛エヴァや95年の日本社会の事象を含め「95年の思想」と呼んだ。
そしてゼロ年代に入り、
碇シンジ夜神月は止められない」という言葉で、
その思想の失効を鮮明に印象づけた。


と、同時に「95年の思想」から派生し、
東浩紀などが擁護した「セカイ系の想像力」を批判し、
それに代わりうる「ゼロ年代の想像力」の誕生を、
宮藤官九郎よしながふみ木皿泉などの例をあげながら、
祝福とともに迎えている。


宮台真司が訴えた「終わりなき日常」の息苦しさに対し、
「終わりのある(ゆえに可能性あふれた)日常」が、
サブカルチャーで語られはじめた事を宇野常寛は拾い出した。


ここでようやく「魔法少女まどかマギカ」がいかなる「想像力」の下に生まれたかの話ができる。


翻って「新世紀エヴァンゲリオン」いかなる作品であったか、
それに対する「魔法少女まどかマギカ」位置づけから、
論じると見えてくる地平がある。


エヴァは、SFロボットアニメの系譜にあり、
それを限界まで推し進めた作品であるといえる。


主人公の碇シンジは、エヴァに乗ることを拒否し続ける。
ストーリーは彼がエヴァに乗る「意味」を見つけうるかが鍵になる。
当時のアダルトチルドレンのブームに沿って、
中盤で父である碇ゲンドウからの承認によってそれが得られるのではないかと、
一度は期待されるが、ゲンドウからの命令で、
自らの親友を傷つけることになり、
再び引きこもってしまう。


TV版最終2話で、シンジはエヴァのないパラレルワールドの可能性から、
自分の存在を一方的に承認される。


旧劇場版でシンジは、
人類を一つの生命体−母性のユートピア−にしようという人類補完計画を行うかどうかの、
決定権を委ねられ、最終的に他者の存在を認め、計画を止める。

この旧劇場版の結論に宇野常寛は、一定の評価をしている。
他者との絶望的でありながらも可能性に溢れたコミュニケーションの「地平」を、
シンジが選択したことについて。


宮台真司はこれを、「自己」の謎が「世界」の謎に直結すると言った。
エヴァ後の「セカイ系」ではキミとボクの関係が「世界」の危機に直結する。


ここで改めて、「まどかマギカ」はどうか。
エヴァがそうであったように、魔法少女アニメの系譜にあって、
その限界に挑む作品であると言えるだろう。
主人公のまどかは魔法少女になることが夢だった。
そして、実際にその世界に魔法少女が存在し、
魔女との戦いを繰り広げている事を知らされる。


この設定は再帰的で、それまでの魔法少女モノに対する批判的な視点を与える。


劇中に描かれてはいないので、私の想像になってしまうのだが、
もしかしたらまどかの世界にも魔法少女モノのアニメがあり、
その影響もあってまどかが魔法少女を夢見るようになったのかもしれない。



QBが魔法少女なる契約を結ぶようにせまり、
ほむらがそれを拒もうとする。
後に、その契約で一つの奇跡を起こせる代償が自らの命であることを知るに至る。
9話でQBから語られる「世界」の謎。SF設定。
前回のPOSTでもジャンル変更が起きたことを強調した。


ここでSFアニメとして、エヴァと並べて考えてみる。
エヴァ人類補完計画によって、人類が一つの意志を持った知性体となる。
まどかマギカは地球外知性体の意志によって、少女の感情エネルギーを利用される。

少し前のPOST↓
http://d.hatena.ne.jp/xerxes1/20100920/1285010946

でも論じた、人類進化とその先にある知性体の問題系とも絡んでくる。
エヴァではシンジは知性体への進化を拒否した。
まどかマギカでは進化した後に宇宙のエネルギーが枯渇していたら困る。
共に人類の進化を扱った作品でその異なった側面を描いている。
その意味で9話は大きな転換点であった。



前回のPOSTで10話の重要性を強調したのは、
この10話も作品構成を大きく変える転換点である事による。


この10話を見て、東浩紀が「ゲーム的リアリズムの誕生」で論じた、
小説、桜坂洋All You Need Is Kill」との構造の一致に思い至り愕然とした。


東浩紀は「ゲームの様な小説」と表現している、
まどかマギカ」に関しては「ゲームの様なアニメ」とも呼べるだろう。


「All You」は格闘ゲームをプレーする体験と比べられる。
主人公はタイムスリップで、同じ戦場を何度も経験することで強くなる。


まどかマギカ」では、ほむらがまどかの死をなかったものにするために
タイムスリップする力を得る。



ここで私の経験を一つ。
ゲーム的リアリズムの誕生」では同じような作品として
有名な「ひぐらしのなく頃に」を挙げている。

この作品は弟と一緒に見ていて、
鬼隠し編が終わり、次の週から綿流し編が始まったと時に、
弟が示した自然な驚きに、逆に自分が驚かされた。
確かに一般的な「物語」は一つの時間軸上に展開されていく。
弟もタイムスリップモノは経験していたと思う。
しかし、ループモノに対する経験がなかったのか、
次の週から圭一達が生き返り、普段どおりの学園生活をしているのに驚いたのだろう。


Wkanameさんからも指摘されたが、オタク的な文脈の作品では、
このループモノは珍しくないのかもしれない。
美少女ゲームの体験自体がその事を内包しているし、
宮台真司が絶賛した、細田守によって再構成され、一般的にも認められた、
時をかける少女」の前例もある。





(実はこのPOSTは一度、有馬温泉から帰ったときに書き始め、
もう一度「ゼロ年代の想像力」を読み直さなければと思い。
読み終えてから再度加筆しているので、私の問題意識も変わってきている。
宇野常寛さんも、直接的ではないが、次のニコ生で「まどかマギカ」を扱うと言っている。
せめてその前に、東フォロアーを続けてきた自分に新しい地平を見せてくれた、
宇野さんに語られる前に、「ゼロ想」を読んだ後の、
演習問題として「まどかマギカ」を私の言葉で解きたいという思いがある。)


では、こうした前例もあるのに、なぜ「まどかマギカ」について語らなければならないか。
という問に答えていけたらと思う。


前回のPOST↓

http://d.hatena.ne.jp/xerxes1/20110317/1300378841


でも宣言した様に直感として、この作品がゼロ年代を終わらせてくれたと思えたことにある。


外部的な要因として、日本という国自体がこの震災を受けて次の時代に進まなければならないということがある。


被災地の方々が、非常に苦しい生活を余儀なくされているのに、
アニメについて語る事が許されるのか。

アウシュビッツ後に詩を紡げるのかというアドルノの問題。
これに関しては、近年研究で、アウシュビッツを経験したからこそ、
芸術や哲学が出来るのだという解釈があるようだとググって知りました。


それでなくとも、twitterですでに東浩紀さんが、まどかマギカと震災の関係と、
阪神大震災エヴァの関係について聞いた質問者に対して,
厳しく、それはオカルトだと釘を刺していました。

しかし、「ゼロ想」を読みなおして、阪神大震災オウム事件エヴァ製作中に経験した庵野監督への影響。
911小泉改革を経たからこそ、「デスノート」や「コードギアス」があった、
という宇野さんの指摘を受けて、
改めて「まどかマギカ」について語れるのではないかとも思います。

少なくとも、まだ未完の最終話には何らかの影響は出てしかるべきだと思われます。

95年のエヴァを視聴していた人の中には、この作品と時代が余りにも
シンクロ率にしていたこと。
阪神大震災で、「セカイ」の終わりを見て、
オウム事件で、「セカイ」を終わらせようとした人達がいたというのを見て、
その後始まったエヴァ
この社会の問題に対する何らかの答えが出されるのではないかと期待していた人が、
少なくともいたというのを聞いたことがあります。


繰り返しますが、エヴァはある意味で旧劇場版では、それに対する一定の答えは与えられました。


もう一つ語るべきなのが、「まどかマギカ」の製作者が、
かなりゼロ年代の終わりと意識していたのではないかという私が推測する点です。


ビバップ攻殻SAC、エウレカ、エルゴ、FREEDOM、バシン、東のエデン
などの脚本家の佐藤大さんが、熱心な宮台読者というのを聞いての推測です。


数十年前の純文学とその批評との関係もそうですが、
製作者がその作品をどのように批評されるのかということに関して、
興味を持つのはある程度、必然ではないかと思う訳です。


まどかマギカの前に脚本を担当する、虚淵玄の一つ前の作品「ブラスレイター」を見るとわかるかもしれません。
ブラスレイター」は変身ヒーローモノの限界点を描いた作品です。
明らかに仮面ライダーの影響下にあります。
最近はウルトラマンの特撮もしている板野一郎が監督を務めた作品です。

ブラスレイターの内容は仮面ライダーでも特に、平成ライダーの影響が強いと思われます。
以下にwikiediaから転載します。


「近未来のドイツ市街。その街では死体が突如蘇り、異形の融合体「デモニアック」となって生者を襲う謎の事件が勃発していた。そんな中、生者のままデモニアックへ自由自在に変化する者達が現れる。
彼らはその力を得たために人々から非難と好奇の眼差しで見られながらも、それぞれの思いを胸に悪魔の力を使用していた。しかし、彼らの思いも虚しく刻々と迫って来る残酷な運命、それはデモニアックとなった者達同士による、命を賭けたバトルロイヤルであった。」


「ゼロ想」でも宇野さんが取り上げた平成ライダー、それをアニメで更に推し進めた形で虚淵玄が表現しました。


変身ヒーローで試みた事を今度は変身ヒロイン、魔法少女やろうとしたのが、まどかマギカだった。
まどかマギカの制作の経緯では、まず新房監督が魔法少女モノを作りたいと思い、
その過程で、推測ですが「ブラスレイター」を見ていたのか、
虚淵玄に脚本を依頼することになったそうです。
新房監督も虚淵玄魔法少女モノで、新しいことがしたいという希望があったのでしょう。
更に、虚淵玄は3話までミスリード蒼樹うめ先生の「ひだまりスケッチ」のような楽しい魔法少女の日常を描く作品)を誘おうとしていたことを認めています。
このことも見ている側に対して、批評の文脈に対して意識的だというのが伺えます。


もう言ってしまいましょう。
少なくとも虚淵玄は「ゲーム的リアリズムの誕生」も「ゼロ年代の想像力」も読んでいます(キリッ。
美少女ゲームの臨界点」で東浩紀のインタビューも受けているし。



この作品を語るのに作品のストーリー的な部分を語る前に、
画面に映し出されるものについて、アニメを追い続けてきた者として4点語ります。



第1点は、キャラクター原案の蒼樹うめ先生、
言わずもがな「ひだまりスケッチ」では新房監督と組んで、
空気系のほんわかした世界を表現しました。
これがまどかマギカではミスリードを誘うために機能しました。



第2点は、異空間設定の劇団イヌカレー
この劇団の最初期の作品として坂本真綾の「ユニバース」のPVがあります。
これを見ていたので、当時少しだけ調べました。
結団前はプロダクションIGで働いていたことだけ分かりました。
新房監督作品では、「絶望先生」や「まりあほりっく」で組んでます。
この劇団のまどかマギカでの役割は、画面上では非常に大きいように思われます。
同じ異空間という意味では今期「夢喰いメリー」で夢の世界を描いていますが、
イヌカレーの作った異空間が圧倒しています。
もうセルアニメーションという文脈を完全に無視しています。
「ユニバース」のPVでは、幻想的という言葉が浮かびましたが、
今作では、なんというか、狂気とも言える人間の負の面を、映像で表現しているとでも言えるでしょう。



第3点、アクションディレクターの阿部望
今作ではアクションディレクターとして、この阿部望と神谷智大の2名が担当しています。
神谷智大については勉強不足なので、阿部望について。
私が阿部望を最初に意識したのは、アームズ制作の「一騎当千」シリーズです。
彼の人物アクションに作画オタとしてかなりハマってました。
今作では、杏子の多節槍でのアクションに、「一騎当千」の関羽のアクションを思い出しました。
細かいところだと、10話のマミが出したリボンに着地し、沈み込んだ姿勢からまどかが弓を撃つ作画とかすげーと思いました。



第4点、エヴァの主要声優の2人がこの作品に参加していること。
一人目がまどか達の先生を演じる岩男潤子
そして、まどかの父の岩永哲哉
共にまどかを導く立場であることを記しておこう。
配役を決めた人物がどれだけエヴァを意識したかは、想像の世界だが、
岩男潤子が演じた、洞木ヒカリは委員長でもあるし、
その後教師を目指すのもあるかもしれない。
岩永哲哉が演じた、ミリタリーオタクの相田ケンスケが、
家族を持つようになるとは14歳の時には想像できなかったが、
オタクと恋愛=結婚の話は置いといて、
娘と一緒に魔法少女アニメを観ている姿は思い浮かぶ。
共にシンジの友達だった2人の未来が見れた気になれた。



劇団イヌカレーの異空間は、様々なところで言われているのですが、
わざわざアクションディレクターという職を作ってのセルでの人物アクションの作画で、
かなりのレベルのモノが見れて作画オタとして嬉しかった。
キャストまでツッコまれるの意識しないはずがない。
こんな内容以外にも、新房監督の力の入れようが見れました。
アクション以外にも、シャフト作品というだけあって「化物語」で見たのと近いカットもあり楽しめました。



閑話休題はこれまでとして、作品のテーマ、ゼロ年代の想像力の臨界点を考えていきます。



3話以降の少女たちが引きずり込まれた、絶望的な極限状態。
QBから告げられた、命と引換えに願いをかなえ、最終的には魔女になるという現実。
放送を取り止めになったのは、諸説ありますが、「セカイ」の終りを正面から描いたことにもよるでしょう。
事実10話でほむらはセカイが終わろうともまどかと共に生きれることのみを望み、
そのために時をやり戻そうとします。
視聴者はどうでしょう。
3話までは、魔法少女であるマミに憧れる主人公であるまどかに感情移入するのではないでしょうか。



4話から9話は、影の主人公、魔法少女さやかマギカとも言われるように願いをかなえるために、魔法少女になるさやかの視点で物語を見ていたでしょう。
結局はさやかの願いはかないますが、彼女自身が望んだようにはならず、絶望し魔女になってしまいます。
となると、まどかは魔法少女になるのかという問題が問われるようになります。
実際に9話の最後で、まどかは決断を迫られます。


ところが、次の10話が大きな転換点となり、
ほむらの視点で進められる中で、
彼女が何度ループを繰り返しても、
「永遠の迷路に閉じ込められても」
まどかを決して魔法少女にしないという決意が語られます。
となると視聴者も次の11話はほむらの視点にたって、
まどかを魔法少女にせずに、ワルプルギスの夜を越えられるか、
という問題に注目することになると思います。


このほむらの決断は「ゼロ想」の文脈に引き寄せるとどう表せるか。



最終2話を見た後の思いは次回POSTかこのPOSTを更新します。

俺の見たかった「マクロスF」だった!!

マクロスFサヨナラノツバサ観てきました。



私はEVAでアニメを見始めたと何度も公言していますが、
小学生の頃は小学生なのでアニメも見る訳ですよ。
当然、マクロス7も見ていました。



思い出に残っているのは、サッカーの少年団の合宿で、
マクロス7の放送時間だと思いテレビをつけて見ていると、
当時の少しませていた友人がそれを見て、
戦闘なのに歌うたってどうするみたいな事を言われた事を思い出します。



小学生から見ても「俺の歌を聴け!!」と戦闘に飛び込むのはおかしい訳で、
よく考えると、初代マクロスを作った河森正治監督自身も、パンフレットで



「アイドル歌手の歌が宇宙戦争を止めうる」
という荒唐無稽スレスレの設定



と認めています。しかし、



ある種神話的な構造を説得力として内包していた



と振り返ると思うそうです。
コレに関して、専攻「現代思想」という私なら、
レヴィ・ストロースなどを援用して語るべきかもしれないですが、
それよりも、今作について語り始めようと思います。



その前にもう一つだけ、マクロスと私の思い出を語ります。



マクロスFが始まるまで、私にとって「マクロス」とは、
マクロスプラス」を意味していました。
これは、多くの人にとって、自分の「ガンダム」があるという、
岡田斗司夫さんに習っての表現で、
リアルタイムで見ていたとか、
ずっとシリーズを見てきたが俺が認めるのはこの「ガンダム」だ、
のようにそれぞれ自分が一押しの「ガンダム」があるという話です。
初代しか認めないのようにね。
それを「マクロス」に応用すると私にとっての「マクロス」は、
圧倒的に「プラス」でした。



EVA後のアニオタと化した私が、それ以前のジャパニメーションと呼ばれる、
様々な作品を見返していた頃に、当然の如くこの「プラス」に出会いました。
勿論当然押えるべきとして、「愛おぼえていますか」も見ました。
でも、確かに優れたSF作品として見られましたが、
「プラス」の衝撃と比べると圧倒的です。



当時、坂本真綾の「奇跡の海」に涙してから、
菅野よう子には注目していました。
ので、この作品も菅野さんが音楽を担当しているというのを知って見始めました。
が、菅野よう子初心者でした。
勿論、普通の中学生としてエスカフローネとかも見てましたが、
菅野よう子と意識し始めたのは「奇跡の海」以降です。
その後は「カーボーイビバップ」が圧倒的ですがね。



そうです。「プラス」です。
この作品の菅野さんの音楽は予想のナナメ上を行っていました。
それ以外にも見るべき点が多々ありました。
どこから述べればいいか悩みますが、



まず、ストーリー。
「記憶」の問題が絡む、大人のラブストーリー
次期主力戦闘機開発(操縦法などの技術面)をめぐる駆け引き
初音ミクの誕生を予見するかのようなヴァーチャルアイドル



作画も当時CGが使い始められていたので、
最後の手描きでのアニメショーンとして限界に挑んだメカアクション。
その後、「ゼロ」ではCGになって、「F」のTV版でも驚きましたが、
今回の「F」劇場版は更にバルキリーの細部までブラッシュアップされていました。



とにかく、私にとってマクロスは「プラス」でした。
正確にはこの「サヨナラノツバサ」を見るまでは。



「プラス」に大感動した私はその後も河森作品、
地球少女アルジュナ」や「創聖のアクエリオン」などを追い続けました。
マイベスト河森作品としては「アルジュナ」を上げますが。



そんな河森監督が25周年でもう一度「マクロス」をつくるということで、
「F」には相当期待していますた。



その期待は一話を見て更に高まりました。
なんすかね。すごく燃えた訳です。
アニメ好き、SFアニメ好きにはたまらない設定だったと思います。
そして、ビジュアル面でも新世代のアニメでした。
菅野よう子の音楽も申し分なく、
それはその後のCDの売上でも実証されました。



とにかく、EVA後の俺はEVAを超えるロボットアニメの登場を、
非常に待ち望んでいた訳です。
このことを、前回の「まどかマギカ」のPOSTでも熱く語りました。
そんな私は、最近では「ぼくらの」や「ラインバレル」に期待もしました。
そんなロボットアニメの次のジェネレーションを
待ち望む私は「F」の一話の出来の良さに期待が最高潮に至ったのです。



でも、疑問点はありました。
「プラス」の「大人」のアニメを期待していたのに、
学園モノという設定。
敵が「虫」。
TV版では設定をうまく掘り下げていけていないと感じ、
「楽しく」は見れましたが、
だんだん視聴テンションは下がっていきました。
ラストの展開もそれほど燃えませんでした。



菅野さんの音楽でのライブシーン、
過去の「マクロス」作品へのオマージュ、
CGによる高速戦闘(本当の三次元板野サーカス
などに高まるものはありました。



でも、振り返ってEVAを超えたかとなると、
素直にそうは言えない自分がいました。



TV版を最後まで見てちょっと残念な気持ちが残りました。



劇場版前編も素通りしていましたが、
Twitter氷川竜介さんが事前に一生懸命宣伝したり、
小飼弾さんが見てきてSF者としていたく感動していたのを見て、
これは俺がTV版一話を見て、
EVAを超えるアニメとして想像した「F」かもしれないと思い見に行ったわけです。



ここまで、映画本編の紹介に入るまでに長くなってしまったので、
一言だけ



「俺の見たかった『F』だった!!!」

と、
ネタバレも含みますので次回POSTで内容に触れます。

「新しい」アニメの誕生

エヴァ以前以後と呼ばれるように、まどかマギカ以前以後と呼ばれるようになると10話を見て思った。  @hazuma さんが、ここまでの展開を含めて、敗北宣言をしたとしたら、その先見の明は凄い。虚淵玄美少女ゲーム作家)が脚本を書くという時点で予見したとしたら。
posted at 23:48:51
まどかマギカは少なくとも、私はロボットモノのエヴァと同じことを魔法少女モノでやって、しかもその思想は、 @wakusei2nd さんの「ゼロ年代の想像力」後のものであるし、構造は @hazuma さんが「ゲーム的リアリズムの誕生」で論じたゲーム的リアリズムのである。
posted at 23:52:47
こうなるとアニメ史としては「ひぐらしのなく頃に」の扱いが難しくなる。更にさかのぼると。エヴァのテレビ最終回のパラレルワールドはいぱーぽりすの最終回もパラレルワールドモノだったというのを私としては注記したいが。それからループものへの発展。 
posted at 23:56:42
ゲーム的リアリズムの作品として関して、「ever17」を押す @wkaname さんにも美少女ゲームには詳しそうなので聞いてみたい気もする。虚淵玄という、美少女ゲームライターが批評の文脈に意識的で、アニメというエヴァという同じ表現形式でこれをやるというのはかなり興味深い。
posted at 00:00:35
エヴァを見て、アニメを見るようになり、庵野秀明監督が宣言するように、それ以後新しいアニメが生まれなかったのだとしたら。まどかマギカの10話以降はこの表現は「偽」になる。そのエヴァ自体が新劇場版の「破」のカヲル君のセリフが仄めかしたループを先にTVアニメでやられてしまったのだから。
posted at 00:05:21
私のこれまでのアニヲタ生活15年間はこの日が訪れるのをずっと待っていた。つまり、エヴァを乗り越えるアニメの誕生をこの目でみたいというのが、ずっと抱いてきた思いで、エヴァの「子供」である自分がその表現を創出したいという思いもあった。アニメ監督になる夢は大学時代まで持ち続けた。
posted at 00:08:46
今私が出来ることは、新しいアニメの出現を祝うことと、その出現の「意味」を批評の文脈を含めて「言葉」にして発信することだと思う。庵野秀明監督が、このまどかマギカを見て、どう思い、新劇場版を完結させることが出来るのか。ある意味、エヴァの解決をまどかマギカが先取りしてしまったことに。
posted at 00:11:48
それはあまりにも不謹慎過ぎてあえて触れなかったのですが、私の確信の中心にもそれがありました。 @wkaname 『エヴァ』 には阪神淡路大震災オウム事件が,バトル・ロワイアル系には 9.11 があったように,『魔法少女まどか☆マギカ』 には
posted at 00:14:10
ミステリーの文脈でメタミステリと呼ばれる一群がそのジャンル自体に懐疑を向けたのに対して、エヴァがロボットモノにそして現在、まどかマギカ魔法少女モノに対して行っている。カントが純粋理性批判で、それまでの哲学に対して懐疑を向けて、新しい哲学を作ったように、アニメが新しい段階に至る。
posted at 00:17:46
果たして、まどかマギカ決断主義に @wakusei2nd さんが「ゼロ想」でそれを乗り越える想像力として提出したものを、まどマギが提出できるのかという問題に今の私の興味は向いています。そして、「宣言」をした @yamacane_0901 さんの「フラクタル」の結末はどうか
私が語らずとも、 @hazuma さんや @wakusei2nd さんが今後、言葉を与えるとは思うのですが、この日の到来を待ち続けたものとして、いち早く発信したかった。それが、まどかマギカの10話を見終えた私の涙の意味だと。
posted at 00:25:08
そして、エヴァ後の世界のように、まどかマギカ後の世界がどのようなものかそれに言葉を与えたいという欲望があります。そのために哲学を修めたのだから。現在も 佐々木俊尚さんの「キュレーションの時代」や、 @ToshioOkada さんの「評価経済社会」を読んでる
posted at 00:28:22
アニメ表現が転換期に来ていることは、 @yamacane_0901 さんが抱き続けてきた危機感として現れていることだし、現在「フラクタル」で実践しようとしている庵野監督が言う意味での「新しい」アニメの創出の必要性にも現れている。
posted at 00:32:51
現実世界に関して言えば、今の震災で不安に押しつぶされそうだった、暗闇のなかで「希望」を与えてくれたのは、間違えなくtwitterだった。
posted at 00:34:27
@ToshioOkada さんが言うように、twitterのフォロワーはお金では買えない。私の大切なフォロワーさんとだけでも、新しい時代の到来の喜びを分かち合いたい。
posted at 00:40:18
2011年の悲劇が10年代の始まりという「希望」の片鱗を見せてくれたことに、僕は心からの喜びを感じた。現在被災地で苦しい思いをされている方々が、新しい世界を切り開いて行く開拓者になるんじゃないかという期待が僕の胸にはある。
posted at 00:43:04
アニメを見るようになったきっかけをエヴァが僕に与えてくれた様に、まどかマギカを見た今の少年が、新しい表現を切り開いていくのだと思う。おっと「フラクタル」ハジマタ。
posted at 00:47:10
アニメ=SFだった時代を経て、現在はアニメ=ファンタジーになりつつあるのに、今2本の「SF」アニメが新しい時代を切り開こうとしている。エヴァからSF小説を読むようになった私や、 @naoya_fujita さんが一方でいる。
posted at 00:52:56
新しい表現へ至る道を「フラクタル」は確かにエヴァ寄りのSFというジャンルから。「まどかマギカ」は当初違うジャンルだと思われたが、SF的な謎の解決が行われジャンル自体の変更(「うみねこのなく頃に」の問題系)され魔法少女かつSFという方向から。
posted at 01:04:00
#life954 でも問題にされた。村上春樹エヴァの「父親」になれるか問題にも、 @yamacane_0901 監督と @hazuma さんは「フラクタル」で答えようとしている。
posted at 01:06:51
父になる、つまり次の世代を創出するという問題は、今の私の置かれている立場、アニヲタを続ける私と結婚して子どもができた私の弟との関係も今の私には切実だ。父になる前に、一人の社会人として自立できているのかという問題も。
posted at 01:12:00
とりあえず、エヴァへの解答を示すという私に与えられた課題は、私以外のエヴァの「子供達(チルドレン)」によって一応の解答が示された。この記念すべき日がやってきたということを広め、共に喜び合える仲間を探すことを現在の目標にしたい。その為の活動の場としてこれからもtwitterを使う。

眠れないのでアニメの感想などを

今は、HDDに貯まったスタドラを消化中です。


それはちょっと置いといて、
思想地図βの巻末特集を読んで、
今期はフラクタルだけを見て、
次週を楽しみに何回も繰り返してみて過ごそうかと決意しかけましたが、


無理でした。


今期は色々楽しみな作品が多く、
録画予約だけと思いましたが、
他作品も見続けています。


フラクタルは別格で、
繰り返し2、3回見てますが、


他では前期、俺妹にかなりやられた俺は、
原作ライトノベルを全巻読破してしまいました。


そこで妹モノが今期もあるということで、
注目したのが兄好です。
監督が元永慶太郎というのも危険な香りがしていましたが、
見始めてみると、初回で実は妹と血は繋がっていないという超展開、
以降、変態達による宴として鑑賞しています。


次にISも期待していました。
学園ロボットモノで監督がマクロスFの菊地康仁ということで、
また、メカの超速戦闘が見れると思い見始めました。
そしたら、ファースト幼なじみ、セカンド幼なじみという概念が提示され、
やられっぱなしです。


あとは、まどか☆マギカですかね。
魔法少女リリカルなのは無印の監督であった新房昭之が、
虚淵玄の脚本、うめてんていのキャラクターで、
魔法少女モノをやるというので期待大でした。
始まってみると、キタエリが参加していたり、
イヌカレーの幻想世界ありで、
更に3話の首チョンパから、
4話のバトル・ロワイヤル展開、
続きが気になる作品です。


今期はフリージングとキミトドでノトマミヴォイスが聞けますが、
フリージングに関して、なぜOVAでやらないのだ、
というつぶやきを拾いました。
多くの作品がエロに対して光渡しをしますが、
フリージングはそれだけでなくグロ表現にまで規制をしているので、
画面で何が起きているの理解に苦しむ場面も多々あります。
内容としてはポスト・エヴァの作品の系列に並ぶよな、
意欲が感じられますが、
これも今後期待です。


私のTLでは、東浩紀氏の敗北宣言まで出させた放浪息子が大変プッシュされています。
私が見た感想は、今期の岡田磨里3部作、フラクタル放浪息子、GOSIKの三作品はどれも確かに楽しみなんですが、
GOSIK、フラクタルと比べると、ちょっと弱いようにも感じます。
でも、岡田磨里さんの本気度は高いのではないかと感じてもいます。
多くの方が指摘される水彩画のようなキャラの造形はセルでは表現できないものでしょう。
セルにこだわる山本寛とは対象的面白いと思います。
フラクタルのキャラ造形はアニオタではない一般の人が見れるようにということと、
アニメーションの動きの部分で表現したいというのを要請する造形だと思います。





最近の哲学、長谷川宏精神現象学ヘーゲルのとはあえて言いません)
特に始まりのところかからヘーゲルとそれに憑依した長谷川宏の熱量が充満していて
日本語の表現として、勿論読みやすいのは当然ですが、訴えかけてくるものが大きいです。

鈴木謙介「カーニヴァル化する社会」

@kskszk 著「カーニヴァル化する社会」読了。
まず、これが5年前に書かれているという点に、
@hazuma の波状言論に連載されていた原稿を基に書かれたというのが、
時代性というか、鈴木謙介も東さんの弟子筋でもあるというのが面白い。
また当時mixiの会員がまだ40万人しかいない

何故社会がカーニヴァル化するか。
社会構造の変化、再帰的近代からその要請として個人の心理的な構造も変化せざるを得ない
そして、カーニヴァル化へ至るという。


1章で取り上げられたニートはこの5年間で問題としてはマスメディアで取り上げられることは減り潜在化し、
リーマンショックを経てその代わりというのか、非正規雇用や新卒の就職率低下の問題が顕在化した。
しかし、 @kskszkが5年前に指摘した問題の根幹は解決されていない。


私自身とひきつけて考えると、潜在的フリーターという言葉が刺さった。
最後まで読むと、やりたいこと探しがの行方が無限遠に至るという結論は確かにそうなのかもしれない。
私としては、このように読書する時間を確保できる現在の仕事を辞め学問の世界に足を踏み入れるには躊躇する。
やりたいことを探すということに、一定の答えを与えられ、私は癒された。

また、データベースという概念が、 @hazuma と少し違った文脈で使われていたのも驚きだった。
自己の問い合わせ先としてデータベースが存在する。
自分が欲望するのは何かとパラノイアックに問い合わせる。
自己は無根拠に存在を断定するしかないという主張は、哲学的もいろいろ考えさせられた。
自己がデータベースに断片化されているというのは、
先日読んだ「人間はガジェットではない」と照らし合わせても、
5年後の現状がそれに拍車をかけて進んでしまったということなのか。


この5年間でSNSは広まり、facebookは5億人、このtwitterも広まった、去年のネット流出や電子書籍
#life954 で @kskszk はこの本の問題圏を引き続き語っている。
本書の最後で語られた、5年前は「いかにあるべきか」というべき論を語る前に
「いかにしてあるか」を考えるモラトリアムにあるという認識だが、
現在はべき論がほんの少しかもしれないが語れるようになったのではないかとも思う。
この本を手に取ってみようと思ったのも、 
@kskszk 自身がtwitterで10刷りになったとtweetしたのを見たことによる。
この本で中心的に語られたカーニヴァル、祭り自体もこのtwitterから起こることも去年あたりから出だした。

また、ネット社会の個人の心がが躁と鬱に分裂せざるを得ないという考えには、
私自身が躁うつ病、二極性障害も患う身として、いろいろ思うところがあった。
カーニヴァル躁状態の時にやりたいことが見いだせ、
反省的な鬱状態の時にそれが一時的なものでしかないことに気づかされる。
あとがきで @kskszk 氏自身がカーニヴァル的な状態で仕事をして、
それが終わると虚脱感に襲われるというのを繰り返していたと昔を振り返って述べている。
現代に生きる私たちは、それが一時的なカーニヴァルと知りつつも、その中でしか仕事をできないのか、これも大きな問題だ。