書いてみる。

このブログを全然更新しなくなって、はや幾年。
軽い気持ちで、フリック入力で書いてみる。
直前に友人のブログを読んで、思うところがあり、
タッチパネルに指を滑らせている。
その友人のことを書いてみようか。

出会いは大学に入って、同じ学科の、
同じ場所に集まる習慣があり、
話をするようになった。
習慣の仲間とその周辺の人がよく話す範囲だ。
今思い出せる、最初の彼の印象は、
村上春樹の読者というものだ。

私が読んできた小説は中学時代によく読んだ翻訳SF小説
くらいで、高校時代は哲学関連の本など、
ノンフィクションをよく読んでいたが、
小説はあまり読んでこなかった。
それでも村上春樹の名前は知っていたが、実際に読むのは、
社会人になってからだ。
講義で河本英夫先生が村上春樹は新しい感情を発明した、
と言っていたのは覚えていた。
ちなみにエヴァンゲリオンもそうだと言う。

その友人とは、卒業後もなんやかんやあって、
つながっていて、LINEでくだらない話をしたり、
読んだ本の話を投げつけたりしているが、
あきれられずに相手をしてくれている。

今日も休日出社を終えて、
しごおわ、とLINEをしたら、
お疲れ様とねぎらってくれた。

横になって肘で体重を支え、
その腕でこのスマホを入力しているのが、
辛くなってきたのでこれまで!

The Tiger and Bunny Rises -どんな状況においても自らを認めると言う事-

正義とは何かを問うこの映画で、

その正しさによって私を打ち震わしたのは、

間違いなくファイアーエンブレムだった。

 

現代は如何なる者も、自らを承認してくれる人物を探している。

それは恋人かもしれないし、

家族、友人、同僚、色々な可能性がある。

しかし、より根本的に自分を承認しなければならない人物がいる。

 

自分自身だ。

 

例えば、自分を承認できない人物とはどんな状況に置かれている者のことだろう。

マイノリティと社会から名指しされる者は、

そうでない者と比して、簡単に自らを認めることができるだろうか。

確かに、強い意志を持って、それでも自らを認めようとしても、

社会から不断に、お前のことは認めない、と言われ続けられれば、

その意志が容易に砕かれるに違いない。

 

作中のファイアーエンブレムはどうか。

敵の攻撃により、眠らされたファイアーエンブレムは、

夢の中で自らのトラウマと戦うことになる。

学生時代の保健室。眠る意中の少年の唇に触れるファイアーエンブレム

その少年はファイアーエンブレムがそうしてくると事前に予測し、

罠にはめる為にそこで目を閉じていた。

 

私の話をしよう。

このBlogの読者の方はご存知かも知れないが、

私も精神的な障害と戦っている。

しかも、相手はかなり複雑だ。

試しに私の病名をグーグルなりに検索窓にダブルコーテーション込みで投げてほしい。

 

病名 "気分障害を伴う統合失調症"

 

ネットでは私が書き込んだものともう一人しかいない。

よくヒットする統合失調感情障害とは違う病だと主治医から言われている。

 

よくもまあ、そんな珍しい病気にかかったものだと、

自分を褒めてやりたいが、そうしたからと言って、

明日からの私の生活が改善するわけではない。

 

 

それはさておき、ファイアーエンブレムは、

ブルーローズやドラゴンキッドの声にも助けられ

そして、何より自ら強い意志を固め、

トラウマを過去のものとして葬り去り、

華麗に復活を遂げる。

 

男は度胸、女は愛嬌、オカマは最強。

 

その言葉に全俺が泣いた。

 

 

突然かも知れないが正義について考える。

特に英語で言われる場合の、

ポリティカル・コレクトネスだ。

 

ポリティカル・コレクトネスから見て、

ファイアーエンブレムは圧倒的に正しい。

何だ。俺は男に見えるかもしれない。

でも、男が好きだ。

女性のような格好もしたい。

圧倒的に正しい。

 

そもそも、私が修めた西洋哲学の始まりの地。

古代ギリシャでは、むしろ周りから、

優れた男として認められる為には、

少年を愛さなければならなかった。

 

その後の宗教や法律が間違いを犯したというのは、

20世紀の哲学者が明らかにした。

自らも男性を愛したフーコーの貢献は大きい。

IT業界に身を置くものとしては、

不当な罪を苦にこの世を去った、

アラン・チューリングの名も知ってほしい。

 

最近も任天堂がこの過ちを繰り返した。

 

この世界には様々なマイノリティが存在する。

その一人一人がせめて自分くらいは、

自分を認めってやってもよいと思う。

 

それを周りの社会が決して妨げないよう、私は願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それ以外の点について。

映像表現は最高でした。

特に、CGでなければ描けない最後の敵。

脚本は細かく張り巡らされた伏線を綺麗に回収し。

手書きとCGのアニメそれぞれが十分に融合した激しいバトル。

期待値を遥かに上回る出来に大変満足しました。

 

 

ここではない、どこかへ かぐや姫の物語

本日、高畑勲監督作品、「かぐや姫の物語」を鑑賞してきた。

画面に映し出されるアニメーションは、

確かに、百年後も残るであろう素晴らしい質感を表現していた。


内容について、引っかかる点があったので、それを記す。

上川隆也演じる求婚者は、姫を「ここではない、どこかへ」連れていけると主張する。

最近、宮台真司の以下の記事を読んでいたので、この言葉が引っかかった。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1015

ここではない、どこかへを求めることはより本質的なものへの希求だ。

この求婚者の訴えを聞いた姫は、苦しむ。

ここにいたいが、求婚者達に求められる現状からは去りたいというジレンマに泣く。


ここからは、立場の話になる。

ここではない、どこかがあると仮定し、それを求める立場。

ここではない、どこかなどなく、どこまで行っても、ここしかないのだから、

ここで生きていくことに喜びを見出そうとする立場だ。


物語に戻り、かぐや姫はどうだったか、

都に移っても、庭に育った山を模した風景を作った。

姫にとって、こことはこの山と翁と媼、そして捨丸だろう。

またこれらは、月にいた時に求めた、ここではない、どこかでもある。

姫は最後まで内在的であった。

姫の山の自然を愛する姿は誠に美しかった。

ずっとそこで暮らしたかったのだろう。

しかし、翁は都に出て高貴な男と結婚することが姫の幸せになると信じるようになってしまう。

そのことは十分姫も知っていたので、翁の希望は叶えたいが、

今の暮らしも捨てたくないという、葛藤を抱えるようになる。

最終的に帝に触れられることによって、

月に帰りたいと思ってしまい、それが月に届き迎えが来ることになってします。

ここにいることを最も愛した姫が、どこかへ連れて行かれてしまう悲哀がこの作品の最後を締めくくる。

理に打ち勝つ力-まどか☆マギカ-新編-反逆の物語

これは、前編のTBSでの放送を見ながら書いている。

新編での最初の30分について、

退屈だとぬかす輩が居るのを知った。

マジか。少なくとも俺はこの30分間のドキドキを忘れられない。

そのため、ドコモ・アニメストアで第1話を改めて見たほどだ。

そして、今も、前編のこの30分に当たるところを見ている。

ここ数週間でこの件を何度も見た。

第一話、前編、新編の30分は異なる。

だからドキドキする。

製作者も、それぞれ異なったループの世界を描いているという。

特に問題なのが新編での30分だ。

実はTVシリーズは見たが、前編は見ずに後編だけ見たという私は変わり者なのだが、

一応、大好きなさやかの苦しむ姿が見たくなかったとでもほざいておこう。

話を戻す。劇場で新編の最初の30分。

後編の最後にまどかが改変したはずの宇宙で、

また別のループが始まっていることに

対するいらだちが元になっていたかもしれない。

ほむらの献身があってこそ、まどかは概念に移行出来た。

それなのにまた、5人の魔法少女が戦わなければならない、

不条理に憤っていた。



ここまで書いて、先のことも書こうと思ったが、

そんなネタバレ記事は何処にでも載ってるので、

更に先のことを書いて、

文を終えたい。


まどかに対になる存在として悪魔になったほむら。

転校してきたまどかに聞いた最初の質問の内容は今までと異なっていた。

「ルールや規則などを守ろうと思うか?」

こんな質問だったと思う。

これで、ほむらの新たな立場がわかる。

理に反する立場だ。

まどかが理自体なので、

それに対抗することをほむらが選んだことの証明だろう。



最後に、10話を見た俺の興奮とは何だったのだろうか?

http://d.hatena.ne.jp/xerxes1/20110423

これをもう一度、皆さんには読んで欲しいし、

この記事を書いた僕は、

明らかにエヴァを見たとき以来の、

興奮を覚えていた。

「風立ちぬ」生きることへの問い

宮崎駿最新作「風立ちぬ」を見て来ました。

いつもは作家論などを語ることが多い当ブログですが、

今回は素直にスクリーンに投射されたものだけを語りたいと思います。

主人公は学生時代に関東大震災にあいます。

その時に出会った少女と後に再び会い結婚する。

こんな話です。



主人公は子供の頃から飛行機の設計士になることを夢見ています。

夢見ると言う表現そのままに、

実際に「夢」でイタリアの設計士に会います。

そして、

「私は近眼でパイロットにはなれませんが、
 
 設計士には成れますか?」

と聞き、肯定され、設計士を夢見るわけです。



時間は経過し、

学生時代に設計を学び、三菱で設計士になります。



主人公は劇中度々「夢」を見ます。

そこでは、美しく空を舞う飛行機に乗ります。

この作品の最後も夢の世界で終わります。



ここに一貫した、飛行機に対するあこがれを感じました。



劇中、主人公が紙飛行機を作って飛ばすシーンがあります。

実は僕も小学校から中学にかけて、

紙飛行機を作って飛ばすのが趣味でした。

ここで言うところの紙飛行機とは、

折り紙を折って作るものではありません。

言葉では表現が難しいのでリンクを貼ります。

http://www.kamihikouki.jp/

このサイトでの意味の紙飛行機です。

ケント紙に印刷された飛行機の部品を切り抜き、セメダインで接着して作るものです。

実は、この紙飛行機の実験で中学時代、夏休みの自由研究にしたこともあります。

なかなか、上手に作るのが難しいですが、

細かい作業が好きな私に向いた趣味でした。


どうなんだろう。

男の子って、結構、空に憧れる人多いんじゃないかなあ。

でも、それを持ち続けることの難しさをこの作品を見て思いました。


主人公も最初の試作機は失敗せて墜落させてしまいました。

その心を癒すために訪れたホテルで、

ヒロインと再会します。

そして、二人は恋に落ちます。

彼女は結核で自分の命が短いことを知っています。

その命も主人公の夢へとかけたいと思うから、

主人公の仕事をしている目が好きだと言うんだろうと思います。


この作品を今見るということはどういうことなのか。

宮崎駿の企画書を読みましょう。

http://kazetachinu.jp/message.html

夢に執着する人の狂気を一面では描こうということらしいです。

映像としては美しいものを作りたいと。


主人公も鯖の骨の曲線を見て、

美しい、是非、飛行機の設計に使いたい、と言います。


人間の美しいものへの憧れは、

文化として、一定以上の発達した文明では持ちうるものです。

ロマン主義なんかはその最たる例でしょう。

1930年代の貧しい時代に、美しいものを求めると言うことは、

そんな救いのない時代だけが持ちうる希望といった見方もできると思います。

そんな「矛盾」こそ、大切なんじゃないかと考えます。

宮崎駿は「個人」を描きたいと言いました。

それは「時代」と切り離されたと言う意味ではないでしょうか。

人は生まれる、そして、甲斐無く「時代」に生まれる。

どんな時代にも、そこで生きる個人がいる。

辛い時代でも強く生きる個人がいるということが伝わってくる映画でした。





欄外。

いや〜宮崎駿の伝家の宝刀シケモク吸いが、2013年に見れるとは思いませんでした。

何のことかと思われる方もいらっしゃると思います。

一度消したタバコを、再び火を付けて吸うというやつです。

宮崎駿ルパン三世では、よく次元が車の灰皿から拾い出し、

短いままだとあっちくて吸えないので、

楊枝を指して吸うというやつです。

そんだけ僕ら喫煙者はタバコに支配されているんです。

この作品もいたるところでモクモクやってました。

20世紀を舞台にした映画の良いところはこのスパスパ感です。

雨と記憶の飛沫と流れー言の葉の庭ー

新海誠の最新作。

46分間に凝縮された、圧巻のアニメーション技術

見る者の記憶を呼び起こし、スクリーンに吸い込ませる「物語」



この作品には、作品自体だけでなく、

一つの同時上映作品ともう一つこの夏に公開される、

宮崎駿最新作「風立ちぬ」のおまけ映像が付く。

同時上映の「だれかのまなざし」

新海誠が監督する、

娘と父親、猫の関係をテーマにした、

野村不動産「PROUD」とのコラボ作品。

この作品ではアニメーションのディフォルメが若干強めの

可愛らしい雰囲気の中で、

新社会人になって一人暮らしをする娘を、

父親とナレーションをする猫が見守る。


もう一つの「同時上映作品」については、

私が今回伝えたい事ともつながるので最後に改めて取り上げる。


まず、アニメーションの技術的な面ですごく驚いたのは、

全編をとおしての雨の表現だが、

今までは、雨の表現はスタジオジブリにまさる所はないというのが定説だった。

それをことごとく覆したのがこの作品だろう。

監督自身も小松未可子のラジオで、

2回目に見に行く人は、雨の表現だけを見てくださいと言っていた。

ある意味、この作品の影の主人公は雨だろう。

梅雨の始まりから、夏の入道雲が降らす強烈な雨。

その雨が、主人公2人の心情を的確に表している。


監督は言っていなかったが、

もう一つの影の主人公は代々木のドコモタワーではないのかと僕には思えた。

作中ではこのタワーは3DCGで描かれ、

近くを舞う鳥と共に周囲をグルグルとカメラが回りこむ。

物語の一つの始点として度々描かれるこのタワーは考えられる。



実はこのタワーには僕も思い出がある。

予備校生時代、代々木ゼミナールの本校に夏期講習だけ行った時、

この建物が圧倒的なプレッシャーを僕に与えた。

それは、受験というすぐに向かわなければならない目的かもしれない、

いや、それより先を考えることが出来なかった当時の切羽詰まった僕が、

登って行かなければならない頂きのように感じられた。



もう一つ、最近写真を始めた僕が普通のアニメ表現で気になっていたことがあった。

それはカメラを左右や上下に振るPANの時に広角レンズの場合は周辺が歪むというのが現実なのだが、

普通のアニメでこれを表現しているものはなかった。

それを新海誠は東屋での下から上へのPANで見事に表現しきっていた。

このカットだけでも、アニメの未来を託す人として、新海誠が相応しいと思わせた。


彩色の点でも特筆すべきことがある。

これは新海監督が、大成建設の海中トンネルのCMの頃から実践されていることだが、

反射光の表現である。

これについてはパンフレットでも詳細に書かれているが、

アニメの表現を一歩前進さたと思わせた。




次に僕の記憶を呼び起こした事について書いていこうと思う。

作中、ユキノとタカオの距離が近づいてきたと感じさせた場面がある。

それは、先にタカオが東屋でスケッチブックの靴のデザインを書いていたところに、

遅れてきたユキノが後ろから覗きこんだ場面だ。

それに対し、恥ずかしいと思ったタカオは、

「いつもの位置に座ってください。」

とユキノに告げる。

このシーンは二人が雨の日にここで定位置に座って過ごすというのが、

ごく自然なことになったという示唆だと思う。



ここで僕の話をすると小学校の4年生ぐらいのことだろうか。

自然にいつも一緒に下校する女の子ができていた。

ある日、その子に教室で、「帰ろう。」と声をかけた。

そうしたら、小学生の男子によくある、

「お前ら付き合ってるのか?」

などとはやし立てられた事があった。

その女の子と帰ることが、

当たり前になっていたために一緒に下校する様に自然に声をかけてしまった。

こんな二人の関係が自然になるというのが

何か関係が特別になったということの証なんだろう。



もう一つタカオがユキノの靴を作るために、

足型をとるシーンがある。

安心してくれ、

この話は甘酸っぱいものではない。

むしろ汗くさい方の話だ。

高校一年の時、僕はラグビー部に入った。

体格が良かったために、スクラムの一番前のポジション、プロップをしていた。

当時の僕には一つの悩みがあった。

どうしても市販のスパイクが、こうたかばんびろの僕の足に合わないのだ。

それを親父に相談したら、採寸してオーダーメイドのスパイクを作ってくれるところがあるというのだ。

そのおかげで、後のラガーマンとしての生活は快適になったが、

一年の終わり頃、怪我が多くなったのと、

部活に行くより、図書館にこもることが多くなっった僕は自然に退部していた。




是非ともこの映画にはこれを読んだ多くの人に見に行って欲しいので、

内容に深く関わる事は書かないが、

僕が泣いたところだけ記そう。

後半二人の関係にヒビが入ったシーン。

ユキノが走りだそうとするシーンの、

一歩目が踏み出される前にもう僕は泣いていた。

その後、タカオが最後に告げた言葉を聴いた瞬間。

僕の感情は高ぶり、目を閉じてしまった。

そのシーンにどんなものがスクリーンに映し出されたかは僕は知らない。




最後の後述するといった「もう一つ」の同時上映作品、

風立ちぬ」のおまけ映像について、

本編の上映前に鈴木敏夫プロデューサーの直筆の

上映後におまけ映像あるから帰らないでね、との表示があった。

押井監督と鈴木プロデューサー、川上社長のニコ生で押井監督に言われた様に、

鈴木さんは自分の毛筆の文字に自身があるらしいがそのことを置いといて、

内容は素晴らしかった。

宮崎駿1920年代の関東大震災と2011年の東日本大震災を重ねようとするようだ。

関東大震災後日本は本当に厳しいい状況に置かれるが、

その後の太平洋戦争も乗り越えた。

宮崎駿東日本大震災後の僕達にも頑張れるはずだと伝えたいのだろう。

72歳の人のものとは思えないパワーた。

この「風立ちぬ」のおまけ映像を見ながら、

本編の新海誠との事を考えていた。

宮崎駿は先も述べたようにもう72歳だ。

スタジオジブリを継ぐ人が必要とされている。

息子の吾郎監督、自らもやる気満々の庵野秀明監督。

もう一人、新海誠監督はどうだろうか。

少し考えて、すぐに辞めた。

新海誠のフィルムと宮崎駿のそれでは、

根本的な思想が異なっているのだ。

宮崎駿は元がアニメーターだけあって、

手で描けるものは手でという思想が一貫している。

それに対し、新海誠は元が、全部一人でできる人であって、

CG制作、撮影、編集の力も強い。

CGでできるものはCGでと言う思想である。

つまり、二人は世代の差もあるだろうが、

アニメーションについて、異なった思想を持っているのだ。

ということで、宮さんの後は、吾郎監督か庵野秀明監督に任せよう。



本当に心に迫る映画だった。

今後何かの機会があったら、

新海作品に関わってみたいと強く思わせた。

奇蹟の価値はー劇場版 とある魔術の禁書目録 エンデュミオンの奇蹟

原作は発行部数1400万部を超える10年代を代表するライトノベル

鎌池和馬はどのような人物か

映画が始まって上条さんの声を聞いた時

ある現在放送中のTVアニメと私の中でリンクが形成された。

それは同じくJCスタッフの制作する漫画原作アニメ

バクマンである

本映画で上条当麻を演じる阿部敦はこのアニメでは、

亜城木夢叶の作画担当の真城最高を演じている。

ふと、バクマンの思いを馳せると、

その劇中で最高と同世代の天才漫画家、新妻エイジ鎌池和馬にダブって見えた。

新妻エイジ週刊少年ジャンプで2本の漫画を連載するほどの速筆で有名だ。

同じく鎌池和馬は3ヶ月に1冊以上のスピードでライトノベルを世に出している。

今回の映画では鎌池和馬はストーリーの原案で参加している。

新妻エイジは自分の漫画がアニメ化するときはアニメ化用のネームまで書いてしまうほどの人物だ。

この映画では、無理難題を投げつける鎌池和馬新妻エイジ

上条当麻真城最高が拳一つで立ち向かう映画なのではないかと私には思えた。




もう一つ、この映画の脚本家、吉野弘幸の存在が気になった。

この映画を見たものの多くが、マクロスっぽいと話していた。

それもそうだろう。

吉野弘幸マクロスFの脚本も担当していたからだ。

歌姫の歌声に合わせて戦闘が展開するシーンを描かせたら、

この人は日本ではトップクラスだろう。

しかし、昨今のアニメオタクにはこの人物がシリーズ構成を担当することは喜ばれないこともある。

だが、TVシリーズの脚本ではなく、こと映画の脚本に関してはかなりの実力を、この吉野弘幸は持っていると私は思う。

とある魔術の禁書目録は大河小説であるので、

登場人物が銀河英雄伝説並に多い。

小説のファンとしてはせっかくの映画なのだから、

たくさんのキャラクターの活躍を見たいと思うだろう。

吉野弘幸の脚本は、それをかなり実現している。

特に一方通行(アクセラレーター)の登場シーンは短いが、

ちゃんと伏線も張られた上で、

アクセラレーターでなければ対処出来ないシーンでの登場となっている。

とある科学の超電磁砲のオリジナルキャラクターの佐天涙子も、

いつもの騙されやすいキャラクターとして登場している。

佐天涙子の平常運転ぶりを見て喜んだものも多いだろう。


バクマンマクロスFともう一つ思い浮かんだ作品がある。

攻殻機動隊である

それもタチコマの活躍があるSACだ。

科学サイドにタチコマに似た兵器が登場する。

光学迷彩で多脚の兵器に少女がバイクに跨るような姿勢で乗り込む。

SACから10年がたつ。

日本のアニメーション技術の進化をまざまざと見せつけてくれた。

高速での魔術サイドの火、水、土、風の魔法使いとの戦闘は確かに紛れもなく映画であった。

この一連のシーンが有ったおかげで、多くの観客が劇場版の禁書目録にのめり込んで行ったことだろう。


最後にこの作品のテーマについて語ろうと思う。

副題にあるように、それは奇蹟についてだ。

みなさんは奇蹟をどのように受け取っているか。

劇中では、多くの人達が、

3年前の宇宙ジェット機墜落事故を奇蹟だと思っている。

ただ、一人だけこれに対抗して、

そんなものは奇蹟ではなくただの偶然でしかないと思う少女が出てくる。

奇跡的な出来事が、とある人にとっては偶然でしかないといった状況は、

現実にも起こりうる。

その出来事がその人物にプラスに働けば奇蹟で、そうでなければ偶然になる。

この問題を掘り下げた本作は紛れもなく映画であり、

その問は哲学的とさえ言えるだろう。





個人的な話になるが、

エンドロールに一つの驚きがあった。

東放学園映画専門学校という表記があったからだ。

この日の午前中、私は西新宿のこの学校に体験入学行ってきた帰りにこの映画を見た。

11月末、エヴァQを見て会社を飛び出した私は、

アニメーションの撮影の仕事をするために、

4月からこの学校に行きたいと思っている。