書いてみるリターンズ

購読リストのブログを読んで、自分も書けることに気づき、書いてみる。

またGalaxyから、ここまで書いて、キーボードをアルテに戻した。

久々のアルテ、そういえぼ濁点をターンフリックで入力できたなと、思い出し指も覚えてた。

 

なんやかんやあって、今日も暮らしを続けている。

なんか仕事が降ってきて、それをこなしつつ、日々を過ごす。

 

前回の記事を少し見て、あんまり変わらないなと思うところと、変わったところ。

大きく変わったのがアニメを録画でなく、サブスクで見るようになった。

ここまで書いて、アルテから通知が来た。そうだ、アルテはサブスクになったから、やめたのだった。ここからはGboard。

録画へのこだわりはCMが見れるくらい。サブスクでお気に入りリストに登録しての運用で問題ない。独占配信の害も今クールはそれほどない。

 

あと前回の記事、変わらず週刊少年ジャンプをKindleで買って読んでる。全部。

今のジャンプでは、落語と深夜ラジオとプロレスの漫画がやってる。

実に昭和だ。

それぞれに現代的なひねりを入れて、作品にしてる。

 

書いてみる2

また、時間が空いてしまった。

時々このブログのことを思い出し、

書いてみようと思うことがある。

実際に書き出す。

前の記事を書いたときは、アルテを使っていたが、

今回はGoogleのGboardをつかっている。

 

 

さて、年の瀬となった。

このブログは映画やアニメなどについてのことを書いていた。

それらは今も生活の近くにある。

心躍る作品に出会うこともある。

新作アニメのチェックも続けている。

本も少しずつ読んでいる。

本当に少し、6ページくらい。

20冊くらいを並行して、積んで、崩して、積んで。

特に東浩紀の過去の本を読んでいる。

存在論的、郵便的クォンタム・ファミリーズ

思想地図、観光客の哲学、テーマパーク化する地球、

ゆるく考える

東浩紀はブレないというか、ずっと同じことを考えてる。

 

あと読んでいるというと週刊少年ジャンプ

ほぼ全部読んでる。

Kindleで積んで読んでる。

今、呪術廻戦が最終回を迎え、HUNTERXHUNTERが

帰ってきたところ。

 

自分の人生に劇的なことは起きないが、

今の生活を守ろうと極度に保守的になりすぎす、

ほどよい柔らかさを持ちつつ暮らしていけたら、

来年はどんな年になるか。

書いてみる。

このブログを全然更新しなくなって、はや幾年。
軽い気持ちで、フリック入力で書いてみる。
直前に友人のブログを読んで、思うところがあり、
タッチパネルに指を滑らせている。
その友人のことを書いてみようか。

出会いは大学に入って、同じ学科の、
同じ場所に集まる習慣があり、
話をするようになった。
習慣の仲間とその周辺の人がよく話す範囲だ。
今思い出せる、最初の彼の印象は、
村上春樹の読者というものだ。

私が読んできた小説は中学時代によく読んだ翻訳SF小説
くらいで、高校時代は哲学関連の本など、
ノンフィクションをよく読んでいたが、
小説はあまり読んでこなかった。
それでも村上春樹の名前は知っていたが、実際に読むのは、
社会人になってからだ。
講義で河本英夫先生が村上春樹は新しい感情を発明した、
と言っていたのは覚えていた。
ちなみにエヴァンゲリオンもそうだと言う。

その友人とは、卒業後もなんやかんやあって、
つながっていて、LINEでくだらない話をしたり、
読んだ本の話を投げつけたりしているが、
あきれられずに相手をしてくれている。

今日も休日出社を終えて、
しごおわ、とLINEをしたら、
お疲れ様とねぎらってくれた。

横になって肘で体重を支え、
その腕でこのスマホを入力しているのが、
辛くなってきたのでこれまで!

The Tiger and Bunny Rises -どんな状況においても自らを認めると言う事-

正義とは何かを問うこの映画で、

その正しさによって私を打ち震わしたのは、

間違いなくファイアーエンブレムだった。

 

現代は如何なる者も、自らを承認してくれる人物を探している。

それは恋人かもしれないし、

家族、友人、同僚、色々な可能性がある。

しかし、より根本的に自分を承認しなければならない人物がいる。

 

自分自身だ。

 

例えば、自分を承認できない人物とはどんな状況に置かれている者のことだろう。

マイノリティと社会から名指しされる者は、

そうでない者と比して、簡単に自らを認めることができるだろうか。

確かに、強い意志を持って、それでも自らを認めようとしても、

社会から不断に、お前のことは認めない、と言われ続けられれば、

その意志が容易に砕かれるに違いない。

 

作中のファイアーエンブレムはどうか。

敵の攻撃により、眠らされたファイアーエンブレムは、

夢の中で自らのトラウマと戦うことになる。

学生時代の保健室。眠る意中の少年の唇に触れるファイアーエンブレム

その少年はファイアーエンブレムがそうしてくると事前に予測し、

罠にはめる為にそこで目を閉じていた。

 

私の話をしよう。

このBlogの読者の方はご存知かも知れないが、

私も精神的な障害と戦っている。

しかも、相手はかなり複雑だ。

試しに私の病名をグーグルなりに検索窓にダブルコーテーション込みで投げてほしい。

 

病名 "気分障害を伴う統合失調症"

 

ネットでは私が書き込んだものともう一人しかいない。

よくヒットする統合失調感情障害とは違う病だと主治医から言われている。

 

よくもまあ、そんな珍しい病気にかかったものだと、

自分を褒めてやりたいが、そうしたからと言って、

明日からの私の生活が改善するわけではない。

 

 

それはさておき、ファイアーエンブレムは、

ブルーローズやドラゴンキッドの声にも助けられ

そして、何より自ら強い意志を固め、

トラウマを過去のものとして葬り去り、

華麗に復活を遂げる。

 

男は度胸、女は愛嬌、オカマは最強。

 

その言葉に全俺が泣いた。

 

 

突然かも知れないが正義について考える。

特に英語で言われる場合の、

ポリティカル・コレクトネスだ。

 

ポリティカル・コレクトネスから見て、

ファイアーエンブレムは圧倒的に正しい。

何だ。俺は男に見えるかもしれない。

でも、男が好きだ。

女性のような格好もしたい。

圧倒的に正しい。

 

そもそも、私が修めた西洋哲学の始まりの地。

古代ギリシャでは、むしろ周りから、

優れた男として認められる為には、

少年を愛さなければならなかった。

 

その後の宗教や法律が間違いを犯したというのは、

20世紀の哲学者が明らかにした。

自らも男性を愛したフーコーの貢献は大きい。

IT業界に身を置くものとしては、

不当な罪を苦にこの世を去った、

アラン・チューリングの名も知ってほしい。

 

最近も任天堂がこの過ちを繰り返した。

 

この世界には様々なマイノリティが存在する。

その一人一人がせめて自分くらいは、

自分を認めってやってもよいと思う。

 

それを周りの社会が決して妨げないよう、私は願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それ以外の点について。

映像表現は最高でした。

特に、CGでなければ描けない最後の敵。

脚本は細かく張り巡らされた伏線を綺麗に回収し。

手書きとCGのアニメそれぞれが十分に融合した激しいバトル。

期待値を遥かに上回る出来に大変満足しました。

 

 

ここではない、どこかへ かぐや姫の物語

本日、高畑勲監督作品、「かぐや姫の物語」を鑑賞してきた。

画面に映し出されるアニメーションは、

確かに、百年後も残るであろう素晴らしい質感を表現していた。


内容について、引っかかる点があったので、それを記す。

上川隆也演じる求婚者は、姫を「ここではない、どこかへ」連れていけると主張する。

最近、宮台真司の以下の記事を読んでいたので、この言葉が引っかかった。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1015

ここではない、どこかへを求めることはより本質的なものへの希求だ。

この求婚者の訴えを聞いた姫は、苦しむ。

ここにいたいが、求婚者達に求められる現状からは去りたいというジレンマに泣く。


ここからは、立場の話になる。

ここではない、どこかがあると仮定し、それを求める立場。

ここではない、どこかなどなく、どこまで行っても、ここしかないのだから、

ここで生きていくことに喜びを見出そうとする立場だ。


物語に戻り、かぐや姫はどうだったか、

都に移っても、庭に育った山を模した風景を作った。

姫にとって、こことはこの山と翁と媼、そして捨丸だろう。

またこれらは、月にいた時に求めた、ここではない、どこかでもある。

姫は最後まで内在的であった。

姫の山の自然を愛する姿は誠に美しかった。

ずっとそこで暮らしたかったのだろう。

しかし、翁は都に出て高貴な男と結婚することが姫の幸せになると信じるようになってしまう。

そのことは十分姫も知っていたので、翁の希望は叶えたいが、

今の暮らしも捨てたくないという、葛藤を抱えるようになる。

最終的に帝に触れられることによって、

月に帰りたいと思ってしまい、それが月に届き迎えが来ることになってします。

ここにいることを最も愛した姫が、どこかへ連れて行かれてしまう悲哀がこの作品の最後を締めくくる。

理に打ち勝つ力-まどか☆マギカ-新編-反逆の物語

これは、前編のTBSでの放送を見ながら書いている。

新編での最初の30分について、

退屈だとぬかす輩が居るのを知った。

マジか。少なくとも俺はこの30分間のドキドキを忘れられない。

そのため、ドコモ・アニメストアで第1話を改めて見たほどだ。

そして、今も、前編のこの30分に当たるところを見ている。

ここ数週間でこの件を何度も見た。

第一話、前編、新編の30分は異なる。

だからドキドキする。

製作者も、それぞれ異なったループの世界を描いているという。

特に問題なのが新編での30分だ。

実はTVシリーズは見たが、前編は見ずに後編だけ見たという私は変わり者なのだが、

一応、大好きなさやかの苦しむ姿が見たくなかったとでもほざいておこう。

話を戻す。劇場で新編の最初の30分。

後編の最後にまどかが改変したはずの宇宙で、

また別のループが始まっていることに

対するいらだちが元になっていたかもしれない。

ほむらの献身があってこそ、まどかは概念に移行出来た。

それなのにまた、5人の魔法少女が戦わなければならない、

不条理に憤っていた。



ここまで書いて、先のことも書こうと思ったが、

そんなネタバレ記事は何処にでも載ってるので、

更に先のことを書いて、

文を終えたい。


まどかに対になる存在として悪魔になったほむら。

転校してきたまどかに聞いた最初の質問の内容は今までと異なっていた。

「ルールや規則などを守ろうと思うか?」

こんな質問だったと思う。

これで、ほむらの新たな立場がわかる。

理に反する立場だ。

まどかが理自体なので、

それに対抗することをほむらが選んだことの証明だろう。



最後に、10話を見た俺の興奮とは何だったのだろうか?

http://d.hatena.ne.jp/xerxes1/20110423

これをもう一度、皆さんには読んで欲しいし、

この記事を書いた僕は、

明らかにエヴァを見たとき以来の、

興奮を覚えていた。

「風立ちぬ」生きることへの問い

宮崎駿最新作「風立ちぬ」を見て来ました。

いつもは作家論などを語ることが多い当ブログですが、

今回は素直にスクリーンに投射されたものだけを語りたいと思います。

主人公は学生時代に関東大震災にあいます。

その時に出会った少女と後に再び会い結婚する。

こんな話です。



主人公は子供の頃から飛行機の設計士になることを夢見ています。

夢見ると言う表現そのままに、

実際に「夢」でイタリアの設計士に会います。

そして、

「私は近眼でパイロットにはなれませんが、
 
 設計士には成れますか?」

と聞き、肯定され、設計士を夢見るわけです。



時間は経過し、

学生時代に設計を学び、三菱で設計士になります。



主人公は劇中度々「夢」を見ます。

そこでは、美しく空を舞う飛行機に乗ります。

この作品の最後も夢の世界で終わります。



ここに一貫した、飛行機に対するあこがれを感じました。



劇中、主人公が紙飛行機を作って飛ばすシーンがあります。

実は僕も小学校から中学にかけて、

紙飛行機を作って飛ばすのが趣味でした。

ここで言うところの紙飛行機とは、

折り紙を折って作るものではありません。

言葉では表現が難しいのでリンクを貼ります。

http://www.kamihikouki.jp/

このサイトでの意味の紙飛行機です。

ケント紙に印刷された飛行機の部品を切り抜き、セメダインで接着して作るものです。

実は、この紙飛行機の実験で中学時代、夏休みの自由研究にしたこともあります。

なかなか、上手に作るのが難しいですが、

細かい作業が好きな私に向いた趣味でした。


どうなんだろう。

男の子って、結構、空に憧れる人多いんじゃないかなあ。

でも、それを持ち続けることの難しさをこの作品を見て思いました。


主人公も最初の試作機は失敗せて墜落させてしまいました。

その心を癒すために訪れたホテルで、

ヒロインと再会します。

そして、二人は恋に落ちます。

彼女は結核で自分の命が短いことを知っています。

その命も主人公の夢へとかけたいと思うから、

主人公の仕事をしている目が好きだと言うんだろうと思います。


この作品を今見るということはどういうことなのか。

宮崎駿の企画書を読みましょう。

http://kazetachinu.jp/message.html

夢に執着する人の狂気を一面では描こうということらしいです。

映像としては美しいものを作りたいと。


主人公も鯖の骨の曲線を見て、

美しい、是非、飛行機の設計に使いたい、と言います。


人間の美しいものへの憧れは、

文化として、一定以上の発達した文明では持ちうるものです。

ロマン主義なんかはその最たる例でしょう。

1930年代の貧しい時代に、美しいものを求めると言うことは、

そんな救いのない時代だけが持ちうる希望といった見方もできると思います。

そんな「矛盾」こそ、大切なんじゃないかと考えます。

宮崎駿は「個人」を描きたいと言いました。

それは「時代」と切り離されたと言う意味ではないでしょうか。

人は生まれる、そして、甲斐無く「時代」に生まれる。

どんな時代にも、そこで生きる個人がいる。

辛い時代でも強く生きる個人がいるということが伝わってくる映画でした。





欄外。

いや〜宮崎駿の伝家の宝刀シケモク吸いが、2013年に見れるとは思いませんでした。

何のことかと思われる方もいらっしゃると思います。

一度消したタバコを、再び火を付けて吸うというやつです。

宮崎駿ルパン三世では、よく次元が車の灰皿から拾い出し、

短いままだとあっちくて吸えないので、

楊枝を指して吸うというやつです。

そんだけ僕ら喫煙者はタバコに支配されているんです。

この作品もいたるところでモクモクやってました。

20世紀を舞台にした映画の良いところはこのスパスパ感です。