まどかマギカは果たして庵野秀明が使う意味で「新しいアニメ」足り得たのか

エヴァを見た私は、それを語りうる言葉を求めた。


すぐに宮台真司に出会い、また彼を通して東浩紀を知り、
東を批判する、宇野常寛の「ゼロ年代の想像力」に至った。


彼らはそれぞれの言葉でエヴァを語り、エヴァが切り開いた『地平』が、
その後のサブカルチャーに与えた影響の大きさに注目していた。


中でも、宇野常寛エヴァや95年の日本社会の事象を含め「95年の思想」と呼んだ。
そしてゼロ年代に入り、
碇シンジ夜神月は止められない」という言葉で、
その思想の失効を鮮明に印象づけた。


と、同時に「95年の思想」から派生し、
東浩紀などが擁護した「セカイ系の想像力」を批判し、
それに代わりうる「ゼロ年代の想像力」の誕生を、
宮藤官九郎よしながふみ木皿泉などの例をあげながら、
祝福とともに迎えている。


宮台真司が訴えた「終わりなき日常」の息苦しさに対し、
「終わりのある(ゆえに可能性あふれた)日常」が、
サブカルチャーで語られはじめた事を宇野常寛は拾い出した。


ここでようやく「魔法少女まどかマギカ」がいかなる「想像力」の下に生まれたかの話ができる。


翻って「新世紀エヴァンゲリオン」いかなる作品であったか、
それに対する「魔法少女まどかマギカ」位置づけから、
論じると見えてくる地平がある。


エヴァは、SFロボットアニメの系譜にあり、
それを限界まで推し進めた作品であるといえる。


主人公の碇シンジは、エヴァに乗ることを拒否し続ける。
ストーリーは彼がエヴァに乗る「意味」を見つけうるかが鍵になる。
当時のアダルトチルドレンのブームに沿って、
中盤で父である碇ゲンドウからの承認によってそれが得られるのではないかと、
一度は期待されるが、ゲンドウからの命令で、
自らの親友を傷つけることになり、
再び引きこもってしまう。


TV版最終2話で、シンジはエヴァのないパラレルワールドの可能性から、
自分の存在を一方的に承認される。


旧劇場版でシンジは、
人類を一つの生命体−母性のユートピア−にしようという人類補完計画を行うかどうかの、
決定権を委ねられ、最終的に他者の存在を認め、計画を止める。

この旧劇場版の結論に宇野常寛は、一定の評価をしている。
他者との絶望的でありながらも可能性に溢れたコミュニケーションの「地平」を、
シンジが選択したことについて。


宮台真司はこれを、「自己」の謎が「世界」の謎に直結すると言った。
エヴァ後の「セカイ系」ではキミとボクの関係が「世界」の危機に直結する。


ここで改めて、「まどかマギカ」はどうか。
エヴァがそうであったように、魔法少女アニメの系譜にあって、
その限界に挑む作品であると言えるだろう。
主人公のまどかは魔法少女になることが夢だった。
そして、実際にその世界に魔法少女が存在し、
魔女との戦いを繰り広げている事を知らされる。


この設定は再帰的で、それまでの魔法少女モノに対する批判的な視点を与える。


劇中に描かれてはいないので、私の想像になってしまうのだが、
もしかしたらまどかの世界にも魔法少女モノのアニメがあり、
その影響もあってまどかが魔法少女を夢見るようになったのかもしれない。



QBが魔法少女なる契約を結ぶようにせまり、
ほむらがそれを拒もうとする。
後に、その契約で一つの奇跡を起こせる代償が自らの命であることを知るに至る。
9話でQBから語られる「世界」の謎。SF設定。
前回のPOSTでもジャンル変更が起きたことを強調した。


ここでSFアニメとして、エヴァと並べて考えてみる。
エヴァ人類補完計画によって、人類が一つの意志を持った知性体となる。
まどかマギカは地球外知性体の意志によって、少女の感情エネルギーを利用される。

少し前のPOST↓
http://d.hatena.ne.jp/xerxes1/20100920/1285010946

でも論じた、人類進化とその先にある知性体の問題系とも絡んでくる。
エヴァではシンジは知性体への進化を拒否した。
まどかマギカでは進化した後に宇宙のエネルギーが枯渇していたら困る。
共に人類の進化を扱った作品でその異なった側面を描いている。
その意味で9話は大きな転換点であった。



前回のPOSTで10話の重要性を強調したのは、
この10話も作品構成を大きく変える転換点である事による。


この10話を見て、東浩紀が「ゲーム的リアリズムの誕生」で論じた、
小説、桜坂洋All You Need Is Kill」との構造の一致に思い至り愕然とした。


東浩紀は「ゲームの様な小説」と表現している、
まどかマギカ」に関しては「ゲームの様なアニメ」とも呼べるだろう。


「All You」は格闘ゲームをプレーする体験と比べられる。
主人公はタイムスリップで、同じ戦場を何度も経験することで強くなる。


まどかマギカ」では、ほむらがまどかの死をなかったものにするために
タイムスリップする力を得る。



ここで私の経験を一つ。
ゲーム的リアリズムの誕生」では同じような作品として
有名な「ひぐらしのなく頃に」を挙げている。

この作品は弟と一緒に見ていて、
鬼隠し編が終わり、次の週から綿流し編が始まったと時に、
弟が示した自然な驚きに、逆に自分が驚かされた。
確かに一般的な「物語」は一つの時間軸上に展開されていく。
弟もタイムスリップモノは経験していたと思う。
しかし、ループモノに対する経験がなかったのか、
次の週から圭一達が生き返り、普段どおりの学園生活をしているのに驚いたのだろう。


Wkanameさんからも指摘されたが、オタク的な文脈の作品では、
このループモノは珍しくないのかもしれない。
美少女ゲームの体験自体がその事を内包しているし、
宮台真司が絶賛した、細田守によって再構成され、一般的にも認められた、
時をかける少女」の前例もある。





(実はこのPOSTは一度、有馬温泉から帰ったときに書き始め、
もう一度「ゼロ年代の想像力」を読み直さなければと思い。
読み終えてから再度加筆しているので、私の問題意識も変わってきている。
宇野常寛さんも、直接的ではないが、次のニコ生で「まどかマギカ」を扱うと言っている。
せめてその前に、東フォロアーを続けてきた自分に新しい地平を見せてくれた、
宇野さんに語られる前に、「ゼロ想」を読んだ後の、
演習問題として「まどかマギカ」を私の言葉で解きたいという思いがある。)


では、こうした前例もあるのに、なぜ「まどかマギカ」について語らなければならないか。
という問に答えていけたらと思う。


前回のPOST↓

http://d.hatena.ne.jp/xerxes1/20110317/1300378841


でも宣言した様に直感として、この作品がゼロ年代を終わらせてくれたと思えたことにある。


外部的な要因として、日本という国自体がこの震災を受けて次の時代に進まなければならないということがある。


被災地の方々が、非常に苦しい生活を余儀なくされているのに、
アニメについて語る事が許されるのか。

アウシュビッツ後に詩を紡げるのかというアドルノの問題。
これに関しては、近年研究で、アウシュビッツを経験したからこそ、
芸術や哲学が出来るのだという解釈があるようだとググって知りました。


それでなくとも、twitterですでに東浩紀さんが、まどかマギカと震災の関係と、
阪神大震災エヴァの関係について聞いた質問者に対して,
厳しく、それはオカルトだと釘を刺していました。

しかし、「ゼロ想」を読みなおして、阪神大震災オウム事件エヴァ製作中に経験した庵野監督への影響。
911小泉改革を経たからこそ、「デスノート」や「コードギアス」があった、
という宇野さんの指摘を受けて、
改めて「まどかマギカ」について語れるのではないかとも思います。

少なくとも、まだ未完の最終話には何らかの影響は出てしかるべきだと思われます。

95年のエヴァを視聴していた人の中には、この作品と時代が余りにも
シンクロ率にしていたこと。
阪神大震災で、「セカイ」の終わりを見て、
オウム事件で、「セカイ」を終わらせようとした人達がいたというのを見て、
その後始まったエヴァ
この社会の問題に対する何らかの答えが出されるのではないかと期待していた人が、
少なくともいたというのを聞いたことがあります。


繰り返しますが、エヴァはある意味で旧劇場版では、それに対する一定の答えは与えられました。


もう一つ語るべきなのが、「まどかマギカ」の製作者が、
かなりゼロ年代の終わりと意識していたのではないかという私が推測する点です。


ビバップ攻殻SAC、エウレカ、エルゴ、FREEDOM、バシン、東のエデン
などの脚本家の佐藤大さんが、熱心な宮台読者というのを聞いての推測です。


数十年前の純文学とその批評との関係もそうですが、
製作者がその作品をどのように批評されるのかということに関して、
興味を持つのはある程度、必然ではないかと思う訳です。


まどかマギカの前に脚本を担当する、虚淵玄の一つ前の作品「ブラスレイター」を見るとわかるかもしれません。
ブラスレイター」は変身ヒーローモノの限界点を描いた作品です。
明らかに仮面ライダーの影響下にあります。
最近はウルトラマンの特撮もしている板野一郎が監督を務めた作品です。

ブラスレイターの内容は仮面ライダーでも特に、平成ライダーの影響が強いと思われます。
以下にwikiediaから転載します。


「近未来のドイツ市街。その街では死体が突如蘇り、異形の融合体「デモニアック」となって生者を襲う謎の事件が勃発していた。そんな中、生者のままデモニアックへ自由自在に変化する者達が現れる。
彼らはその力を得たために人々から非難と好奇の眼差しで見られながらも、それぞれの思いを胸に悪魔の力を使用していた。しかし、彼らの思いも虚しく刻々と迫って来る残酷な運命、それはデモニアックとなった者達同士による、命を賭けたバトルロイヤルであった。」


「ゼロ想」でも宇野さんが取り上げた平成ライダー、それをアニメで更に推し進めた形で虚淵玄が表現しました。


変身ヒーローで試みた事を今度は変身ヒロイン、魔法少女やろうとしたのが、まどかマギカだった。
まどかマギカの制作の経緯では、まず新房監督が魔法少女モノを作りたいと思い、
その過程で、推測ですが「ブラスレイター」を見ていたのか、
虚淵玄に脚本を依頼することになったそうです。
新房監督も虚淵玄魔法少女モノで、新しいことがしたいという希望があったのでしょう。
更に、虚淵玄は3話までミスリード蒼樹うめ先生の「ひだまりスケッチ」のような楽しい魔法少女の日常を描く作品)を誘おうとしていたことを認めています。
このことも見ている側に対して、批評の文脈に対して意識的だというのが伺えます。


もう言ってしまいましょう。
少なくとも虚淵玄は「ゲーム的リアリズムの誕生」も「ゼロ年代の想像力」も読んでいます(キリッ。
美少女ゲームの臨界点」で東浩紀のインタビューも受けているし。



この作品を語るのに作品のストーリー的な部分を語る前に、
画面に映し出されるものについて、アニメを追い続けてきた者として4点語ります。



第1点は、キャラクター原案の蒼樹うめ先生、
言わずもがな「ひだまりスケッチ」では新房監督と組んで、
空気系のほんわかした世界を表現しました。
これがまどかマギカではミスリードを誘うために機能しました。



第2点は、異空間設定の劇団イヌカレー
この劇団の最初期の作品として坂本真綾の「ユニバース」のPVがあります。
これを見ていたので、当時少しだけ調べました。
結団前はプロダクションIGで働いていたことだけ分かりました。
新房監督作品では、「絶望先生」や「まりあほりっく」で組んでます。
この劇団のまどかマギカでの役割は、画面上では非常に大きいように思われます。
同じ異空間という意味では今期「夢喰いメリー」で夢の世界を描いていますが、
イヌカレーの作った異空間が圧倒しています。
もうセルアニメーションという文脈を完全に無視しています。
「ユニバース」のPVでは、幻想的という言葉が浮かびましたが、
今作では、なんというか、狂気とも言える人間の負の面を、映像で表現しているとでも言えるでしょう。



第3点、アクションディレクターの阿部望
今作ではアクションディレクターとして、この阿部望と神谷智大の2名が担当しています。
神谷智大については勉強不足なので、阿部望について。
私が阿部望を最初に意識したのは、アームズ制作の「一騎当千」シリーズです。
彼の人物アクションに作画オタとしてかなりハマってました。
今作では、杏子の多節槍でのアクションに、「一騎当千」の関羽のアクションを思い出しました。
細かいところだと、10話のマミが出したリボンに着地し、沈み込んだ姿勢からまどかが弓を撃つ作画とかすげーと思いました。



第4点、エヴァの主要声優の2人がこの作品に参加していること。
一人目がまどか達の先生を演じる岩男潤子
そして、まどかの父の岩永哲哉
共にまどかを導く立場であることを記しておこう。
配役を決めた人物がどれだけエヴァを意識したかは、想像の世界だが、
岩男潤子が演じた、洞木ヒカリは委員長でもあるし、
その後教師を目指すのもあるかもしれない。
岩永哲哉が演じた、ミリタリーオタクの相田ケンスケが、
家族を持つようになるとは14歳の時には想像できなかったが、
オタクと恋愛=結婚の話は置いといて、
娘と一緒に魔法少女アニメを観ている姿は思い浮かぶ。
共にシンジの友達だった2人の未来が見れた気になれた。



劇団イヌカレーの異空間は、様々なところで言われているのですが、
わざわざアクションディレクターという職を作ってのセルでの人物アクションの作画で、
かなりのレベルのモノが見れて作画オタとして嬉しかった。
キャストまでツッコまれるの意識しないはずがない。
こんな内容以外にも、新房監督の力の入れようが見れました。
アクション以外にも、シャフト作品というだけあって「化物語」で見たのと近いカットもあり楽しめました。



閑話休題はこれまでとして、作品のテーマ、ゼロ年代の想像力の臨界点を考えていきます。



3話以降の少女たちが引きずり込まれた、絶望的な極限状態。
QBから告げられた、命と引換えに願いをかなえ、最終的には魔女になるという現実。
放送を取り止めになったのは、諸説ありますが、「セカイ」の終りを正面から描いたことにもよるでしょう。
事実10話でほむらはセカイが終わろうともまどかと共に生きれることのみを望み、
そのために時をやり戻そうとします。
視聴者はどうでしょう。
3話までは、魔法少女であるマミに憧れる主人公であるまどかに感情移入するのではないでしょうか。



4話から9話は、影の主人公、魔法少女さやかマギカとも言われるように願いをかなえるために、魔法少女になるさやかの視点で物語を見ていたでしょう。
結局はさやかの願いはかないますが、彼女自身が望んだようにはならず、絶望し魔女になってしまいます。
となると、まどかは魔法少女になるのかという問題が問われるようになります。
実際に9話の最後で、まどかは決断を迫られます。


ところが、次の10話が大きな転換点となり、
ほむらの視点で進められる中で、
彼女が何度ループを繰り返しても、
「永遠の迷路に閉じ込められても」
まどかを決して魔法少女にしないという決意が語られます。
となると視聴者も次の11話はほむらの視点にたって、
まどかを魔法少女にせずに、ワルプルギスの夜を越えられるか、
という問題に注目することになると思います。


このほむらの決断は「ゼロ想」の文脈に引き寄せるとどう表せるか。



最終2話を見た後の思いは次回POSTかこのPOSTを更新します。