twitter ID はxerxes_132です。

ということで最近のつぶやきから幾つか転載します。

アニメだけでなく、哲学の本も読んでるw事を。



ジンのLIVE映像漁ってたら、コードギアスのMADを見始め、川田まみの「JOINT」使った奴があったから、ヤマカンのシャナのOPが見たくなって、最後のシャナの表情がハルヒっぽいと思ったら、どちらものいぢ先生の作品でしたというオチ。

コードギアスを見返すと当時の文脈というか、デスノートの切り開いた地平にあって、宇野さんが評価していたのと、俺の5つ下の弟からするとエヴァよりもリアリティを感じるらしくって、更に下の世代だとそれをまどかマギカに感じるのかと思い、庵野監督の嘆きの間もアニメは更新されてるなと思い至る。



河本英夫『臨床するオートポイエーシス』序章及び1章意識読了。河本先生は90年代は精神医学、ゼロ年代に入ってからはリハビリテーションの現場からオートポイエーシスの理論を更新してきた。

先生は本書で意識という問題に面して、最新の認知科学や脳神経科学と、哲学の認識論及び現象学の双方の知見を導き糸にして、自己組織化する意識というシステムの記述を目指している。

ここで先生が使う、科学と哲学の関係が気になった。意識は近年、脳神経系科学の大きな主題として扱われたが、完全な解明には至らなかった。この失敗にこそ哲学が学ぶべき点が大いにあるという。

経験科学は機能を明らかにすることができる。しかし、機能そのものが生じる組織化の仕組みは得られない。哲学はこの場面で、働きとしての意識を論じることができる。フッサールは意識の機能を内観的に調べた。しかし、彼にとって意識は探求の道具であり、問題の対象ではなかった。

先生は、その哲学に特徴的な論理構成が発想に制限をかけているという。カントなどは意識を配置するさいに、その必要条件から論じようとしてしまう。必要条件からは意識などのシステムを作動させることは出来ない。これが哲学の思考停止である。






永井均ウィトゲンシュタイン入門」読んでる。ニーチェの哲学もウィトゲンシュタインの哲学も互いの哲学を内包しうるという話がズゴック面白かった。哲学ならではの難しさを感じた。どちらを形而上学として退けるかは、その人の住む「世界」による。






今日は夜勤三日目明けで折り返し、最近の文化活動としては新海誠の新作を観て改めて小説版の秒速を読む、その前まで元長柾木先生の星海大戦読んでて、かつてあったSFというジャンルに対する想いに共感する。今はポアンカレ予想の本、実はこの3冊繋がりがある 

そういう文学的な繋がりではなく、単純に数学のポアンカレが解いた制限三体問題のラグランジュポイントが星海大戦の太陽系内戦争の係争地点で、尚且つポアンカレが扱ったトポロジー等の純粋数学に秒速の貴樹が惹かれているという繋がりです。

いいとこに気づきましたねw秒速の小説版は、大学行った後の事まで書いてあって、大学時代の彼女との話まで新海誠自身の手で書かれているんだわさ。理学部時代に塾の手伝いをしててそこの数学の講師の講義が受験の為だけでなく純粋数学にも繋がっててって話 

2話のコスモナウトはサーファーの花苗の一人称で話が進むから、新海さんが女子高生になりきってて、ひたすら貴樹くんが好きかを語る。でもって、一緒にロケットが飛び立つのを見て、自分と見ているものが異なり、埋められない距離感を感じて終わる。故に花苗とは別れる。 

大学での彼女は2人いて、共に数カ月で別れている。仕事をはじめたとこまで読んで栞を挟んだので、でも、映画の描写だとプログラマーっぽかったよね。そのへんで、私と引きつけて見ちゃうんだけど。新海氏にとってどの映画も社会学的なロマンチックララヴの否定がテーマらしい。

そこが、ロマンチックラヴの否定というか、初恋の人と結婚しちゃあだめっていうか、逆にジブリは肯定的、今回の新作は画面はジブリ的かもしれないけど、テーマは正反対。  RT @bullotus:一番最初の彼女わすれられなかったってのはどうなのwいや小説版と映画はちがうんでしょうけど。

それまで、新海監督が得意としていたものを封印して、多くの人に届くように作った作品だから、本人も秒速の原理主義者から酷いこと言われたって。自分としては、監督が新しいことに挑戦しようとしているのを応援したい気持ち。 RT @bullotus:で、『星を追う子ども』は面白いのですか?





@ashizu ヘンリーダーガー展。今見てきました。言葉を失います。現在のインターネット社会に誰の目にも触れずに創作を続けるのは難しい。私ですら、このようにネットで妄想を垂れ流してます。





木田元ハイデガーの思想』読了。ハイデガーが問うたのは哲学、形而上学の根本に関わる問題だった。存在、この大いなる問題に真っ正面から取り組んだ。ニーチェから哲学に入った私には避けられない思索家であるという思いを強くした。

形而上学において本質存在と事実存在の区別がなされた、伝統的には本質存在の方が先立つものとされたが、これを転換しようとしたのがシェリングニーチェで、事(実存)在が先立つとしたのが、この実存主義だ。ハイデガーはこの区別自体を葬り去ろうとした。




@bullotus 石原に関しては高橋昌一郎氏の『理性の限界』に出てくるアロウの不可能性定理ってのがあってだな、とにかく選挙なんて投票法でいくらでも結果が変わる訳ですよ。一人一票でもマイナスに入れられたり、複数人に入れられたりすればね。

@bullotus 石原の意志が変わればと淡い期待は俺も持ってるよ。何せ、村上先生もTLに居るしね。君も今見たとおもうけど、あずまんが合理性を語る奴らの前にカントを召喚したいっていってるけど、デカルトから理性の本質について考え直すべきなんだとおもう。

@bullotus あずまんが言ってるのは、合理性というけど、その限界を合理的に決めようとするとシステムエラーを起こすって話。原発の合理性はその程度のものだって事かな。

あずまんの話を受けて、手元にあるフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のカントの節を読むん。フッサールとしてはカントより、デカルトもしくはヒュームが推し進めた道を行こうとしているのかな、教えて山口一郎先生!!




『エンジェルウォーズ』見た。日本のオタクは死んだかもしれないが、オタクという文化は本当に世界に広がったのだと、マトリックスキルビルなどもあったが、ここまで実写で表現できるのだとすると、アニメはどのような表現に進化していくべきなのか考えさせられる。