鈴木謙介「カーニヴァル化する社会」

@kskszk 著「カーニヴァル化する社会」読了。
まず、これが5年前に書かれているという点に、
@hazuma の波状言論に連載されていた原稿を基に書かれたというのが、
時代性というか、鈴木謙介も東さんの弟子筋でもあるというのが面白い。
また当時mixiの会員がまだ40万人しかいない

何故社会がカーニヴァル化するか。
社会構造の変化、再帰的近代からその要請として個人の心理的な構造も変化せざるを得ない
そして、カーニヴァル化へ至るという。


1章で取り上げられたニートはこの5年間で問題としてはマスメディアで取り上げられることは減り潜在化し、
リーマンショックを経てその代わりというのか、非正規雇用や新卒の就職率低下の問題が顕在化した。
しかし、 @kskszkが5年前に指摘した問題の根幹は解決されていない。


私自身とひきつけて考えると、潜在的フリーターという言葉が刺さった。
最後まで読むと、やりたいこと探しがの行方が無限遠に至るという結論は確かにそうなのかもしれない。
私としては、このように読書する時間を確保できる現在の仕事を辞め学問の世界に足を踏み入れるには躊躇する。
やりたいことを探すということに、一定の答えを与えられ、私は癒された。

また、データベースという概念が、 @hazuma と少し違った文脈で使われていたのも驚きだった。
自己の問い合わせ先としてデータベースが存在する。
自分が欲望するのは何かとパラノイアックに問い合わせる。
自己は無根拠に存在を断定するしかないという主張は、哲学的もいろいろ考えさせられた。
自己がデータベースに断片化されているというのは、
先日読んだ「人間はガジェットではない」と照らし合わせても、
5年後の現状がそれに拍車をかけて進んでしまったということなのか。


この5年間でSNSは広まり、facebookは5億人、このtwitterも広まった、去年のネット流出や電子書籍
#life954 で @kskszk はこの本の問題圏を引き続き語っている。
本書の最後で語られた、5年前は「いかにあるべきか」というべき論を語る前に
「いかにしてあるか」を考えるモラトリアムにあるという認識だが、
現在はべき論がほんの少しかもしれないが語れるようになったのではないかとも思う。
この本を手に取ってみようと思ったのも、 
@kskszk 自身がtwitterで10刷りになったとtweetしたのを見たことによる。
この本で中心的に語られたカーニヴァル、祭り自体もこのtwitterから起こることも去年あたりから出だした。

また、ネット社会の個人の心がが躁と鬱に分裂せざるを得ないという考えには、
私自身が躁うつ病、二極性障害も患う身として、いろいろ思うところがあった。
カーニヴァル躁状態の時にやりたいことが見いだせ、
反省的な鬱状態の時にそれが一時的なものでしかないことに気づかされる。
あとがきで @kskszk 氏自身がカーニヴァル的な状態で仕事をして、
それが終わると虚脱感に襲われるというのを繰り返していたと昔を振り返って述べている。
現代に生きる私たちは、それが一時的なカーニヴァルと知りつつも、その中でしか仕事をできないのか、これも大きな問題だ。